新妻くんが泣きついてきた。福田さん大変です一大事ですすぐに来てください大至急超特急です! 仮にも師事している漫画家にそう言われて行かないわけにもいかず、自転車すっとばしてエレベータ待ちきれず階段上って息せき切らし、来てみれば、

「・・・・おい、なんだこれは」
「福田さーん! 来てくれたですー!」

作業部屋へつづく廊下、乱雑な服の山がいくつか生まれその間を悠々と幾筋も泡の川が流れ仄かに、しかししずかに圧迫するように石鹸の匂いが充満している。新妻くんは山と川を越えた先にしゃがみこみ、両手を振っていた。あっけにとられ玄関で立ち尽くしていたが、鼻をつまみ引きつる頬を必死に動かして、唇を働かせる。

「つまり、原稿が大変だとか、そういうことでは、ないんだな?」
「はい? あー、そうです、僕お洗濯よくわかんなくって! スイッチぽちー! で泡がばるるるるで流れてひゅるるーです!」
「・・・・・・・・帰る」
「っえー! 困るですー! 僕ほかに頼る人いないですー!」

福田さあああん! 声、涙まじり、向けた背にしがみついてくる。玄関のドアにかけた手が止まった。あの小生意気な少年がこれほど必死に自分を頼ることはめずらしいことで、そして俺は(人前では絶対そんな素振りは見せないが)捨て猫や捨て犬に弱いタイプで、それで、つまり、もう、しょうがない。帰りかけた足をもう一度くるりと返す。(ああ血も涙もない冷血漢になりてえ・・!)飛び上がって喜ぶ新妻くんには、ため息をつくしかなかった。

どうやら生活能力というものが皆無らしい。一回の洗濯に一箱分の洗剤を使い、ふたをしめずにスタートボタンを押した人間を俺は初めて見た。新人類との遭遇だと思った。だが過ぎたことはどうしようもない、生まれ出づる泡を散らばる衣服でなんとかせき止めまず洗濯機の無事を確保してからようやく、一般的な洗濯は始められた。服をつっこみ適量の洗剤を入れた上ふたを閉めてボタンを押すと、横にいた新妻くんはすごいすごいと言って感動していた。頭が痛い。


数十分の待ち時間を確認して、作業部屋で一息つく。サイダーはこんなに美味かっただろうかと思いながら一息に半分飲み干した。普段なら作業机に向かう新妻くんも、一連の騒動でさすがに疲れたらしい。今日は音楽もかけずイスに座って、膝を抱えていた。静かな新妻くんに俺は聞く。

「越してから一年だろ? 今まで洗濯はどうしてたんだ、」
「雄二郎さんとかが勝手にやっててくれたです」
「じゃあ今日はまたなんで?」
「梅雨だからしてなかったみたいです。気づいたら着るものなくなっちゃって」

ああ、とうなずいた。今朝つけたテレビでは梅雨の晴れ間を喜びお天気お姉さんがにこにこしていたのを思い出す。

「今回は俺が来られたからいいが、これからはちゃんと一人でもできるようにするんだぞ」
「えー・・・うーん、がんばる、です?」
「おいなんだその曖昧な返事は」

しばらくそんなことを喋っているうちに洗濯機が鳴る。俺は立ち上がった。


物干し竿は上下二段に分かれていた。冷房の、室外機の上カゴを載せ、玄関から靴持ってきてさっさと干す。竿の横にかけられていた洗濯バサミはおそらく雄二郎が買ったのだろう。
俺がスウェットのズボンを上の竿に干すと、うしろに座って見ていた新妻くんが歓声を上げた。

「うわあすごいです福田さん! 背えたかいです!」
「別に俺がすげーわけじゃないだろ」
「いーえ! すごいんです、福田さんは背がたかくって漫画のこともよく知ってて僕のこともたくさんたくさん叱ってくれるすごい人なんです!」
「・・・それ、すごいっていうのか?」
「すーごーいーんーでーす!」
「あーわかったわかったそーかよ、じゃーそういうことにしておけよ」

手放しで、ぴょんぴょん跳びはねながら誉められてはどうにも恥ずかしい。背を向けていてよかったと思いながら、ななめにしていた物干し竿をもとにもどした。新妻くんは床のぎりぎりのところに立ってひょいと手を上げてみて言った。

「これきっと僕の背じゃ上手に干せないです。だから福田さんずーっとうちにいてください」
「バカ言え俺はさっさと漫画家んなって出てくんだからな、甘えてんじゃねえ」

びしり、言い放つと新妻くんはがびょー、だとかぶあー、だとか、奇声を発しながら最大限の悲しみを全身で表してみせる。すこしばかり気が引けたが、見ていないふりをした。それからすこしして新妻くんは、なにかひらめいた顔で諸手を挙げる。

「わかりましたじゃあお洗濯のときだけ呼びます! 毎日お洗濯します!」
「それ毎日来いって意味じゃねえか!」
「しまったばれたです!」

ひぎゃー! 近所迷惑になりかねない声量にあわててその口をつぐむ。その拍子にすがるような、こういうときばかりやけに幼い目と目が合ってしまって、そして視線は俺の良心をガリガリと引っ掻く。(くそ、反則だ、ばかやろう)

「あーもー、しょうがねえなあ、・・・週に二度までなら考えてやってもいい」
「ほんとです!?」
「考えるだけだ! 『だけ』!」

途端きらきらと見上げてくるのに、わーいわーいと跳びはねるのにいたたまれなくなって、俺はガタンと窓を閉めた。(くそっ、閉めても喜びまわる声が聞こえてくるってどういうことだ!)そしてそこで近所の人と新妻くんの関係を心配してしまう自分にますます腹が立った。(ちくしょう血も涙もねえ冷血漢はむずかしいぜ・・・)


(2009.0614)