紐で荷物を縛っている。荷造りだ、一年半分の私物。

明日、福田さんはこの部屋を出て行く。

連載が決まったんだから当たり前のことだし、僕だってこんな日が来るってことはわかっていた。今までみたいに同じ部屋で息を吸って話をして笑ったり怒ったりできなくなる日がくる、わかってはいた。はずだった。


来たときこんにちはと言ったきり会話はない。福田さんはせっせと荷造りをしているし僕はネームを考えているふりをしてぐるぐると鉛筆を回している。しずかだった。

なにを言ったらいいのか、それともなにも言わない方がいいのか、とにかく僕は悩んでいた。
漫画のことならなにも悩むことなんてないのに、福田さんのことになるとおどろくほど、どうしていいかわからない僕だ。

そうして長く重たい沈黙を、破ったのは僕でも福田さんでもなく、僕の鉛筆だった。
指先から滑り落ちた2B、カランコロンとフローリングを転がる。そうして後ろで荷造りをしていた福田さんの、足下で止まった。

まばたきをして、ゆっくりとした動作で福田さんはそれを拾った。そうして立ち上がり、僕のところまでやって来る。気をつけろよ、言いながら差し出された手、僕はぎゅうと掴んでいた。ほとんど条件反射だった。沈黙、一瞬、のち、くしゃりと福田さんは笑う。

「なんだよ俺の手は鉛筆じゃねえぞ」
「・・・はい」
「ほら新妻くん、離せよ、」
「・・・はい」

すなおに返事をしたのに、僕の右手はぴくりとも動かなかった。いつもは頭と繋がっているみたいにぴしりと線を引く指、なぜか言うことを聞いてくれない。頭の上、ため息をつくのが聞こえた。

「新妻くん、俺荷物まとめねえといけねえから、」

急かす声、困っている。

「・・て、手が、言うこときかないです・・・」
「・・・・・新妻くん」

つかまれていない方の手が僕の頭を撫ぜる。あやすように長い指がサラリと髪を通った。指先の安心感に触れて、泣きそうになる。こらえていた本音、こぼれおちた。

「・・・福田さんも中井さんも行っちゃうです、僕また、ひとりです」
「ひとりじゃねえだろ、雄二郎が死ぬ気でアシ探してるし」
「・・・・ひとりじゃないけど、ひとりです」
「メールするし電話するし、・・・・・ときどきはメシも作りに来てやっから」

困った困った福田さん、なだめようと声で撫ぜる。やわらかい低音にほろほろと、剥がれてゆく。黙っていた本心、きたない醜悪、剥き出しに。

「ごめんなさい、ごめんなさい、福田さんの連載すごく嬉しいのにわくわくなのに、ほんとはどこかで喜べないです、行ってほしくないです、・・・ごめんなさい僕、わるい子です、・・・・・わるい子です」

絞り出すように言うと福田さんは、僕の手を振りほどいた。鉛筆カラコロと転がり芯の折れたペキリという情けない音がする。ほどかれた手を必死でつかもうともがいた僕は気がつくと、ぎゅうと力任せに抱きしめられていた。細いのにしなやか、筋肉のついた両腕が肩を抱き長い指が背を拘束する。とつぜんのことに思考はついてゆけず、僕はおろおろと福田さんを呼んだ。

「福田、さ、」
「黙ってろ」
「え、」

鋭い語調におどろいた。目だけ動かし見上げれば、きつくとじられた目蓋が僕とおなじ気持ちなのだとつよく語っていた。戦慄く、唇はゆっくりとけれど確りと、言葉を紡ぐ。

「黙って俺を覚えろ、そばにいなくても忘れねえように、脊髄レベルで記憶しろよ。・・・・浮気とかしたら、泣いても叫んでも許さねえ」
「・・っ!」

あまり腕力には自信がなかったけれど細い背中、力いっぱいに抱きしめる。すこしでも僕の気持ちが、この人に伝わればいい。肺を満たす空気は大好きな人の匂いだった。僕はこの匂いを忘れない。すこし早い鼓動、骨張った腕を、ひたいに落ちるあたたかさを僕は忘れない。

しばらくして身を離すと、もうさっきまでのくだらない寂しさはのこっていなかった。



(2009.0707)