手を止めて、スウェットの裾をめくった。薄桃色腫れた肘をガリガリと、左手の爪で抉るように。右手が動かせなくては絵が描けない、むしゃくしゃと、僕は掻きむしった。音楽だけは変わらず走ってゆくのにひとりだけ止まっている、自分がいやだった。
苛立ちながらまた、赤く腫れた肘をかくと不意に音楽が止まった。原稿用紙に揺らいだ影、顔を上げる。リモコンを持った福田さんが立っていた。

「新妻くんなにしてんだ」

みせてみろ、二の腕をつかみリモコン放って持ち上げる。

「・・・蚊? 気づかなかったな、」

言った瞬間僕らのあいだを横切った、羽虫を福田さんの手が素早くつかんで潰した。机上のティッシュを取り出して、憐れな虫けらはごみ箱でその生を終える。しかし蚊が死んだところで痒みは止まらないもので、じわじわと腕の内側からくすぐられるような感覚に、僕は左手を伸ばした。ガリガリするとその手首も福田さんにつかまれる。

「ばか、そんなにひっかくなああほら、血が出てる」
「でも、かゆいです」
「ほっときゃ気になんねえって、」

かがみこんで、ぺろり、舌を伸ばした福田さんが僕の肘を舐めた。ざらつき、湿った舌が肌を這いちくりとした痛みと、言いようのない感覚が背を抜ける。数度舐めて滲んでいた血をとると、福田さんは僕のスウェットを手首までもどした。

「マンガ描く大事な手なんだから」

そう言ってまた自分の席にもどる。そうじゃない、福田さんに触れる、大事な手だ、と僕は思った。しかし思ったところで、それは伝わる由もない。福田さんはもう自分のネームにとりかかっていた。きっと明日には僕の肘を舐めたことなど、あの羽虫のように忘れられているのだろう。


作業部屋には次の日から蚊取り線香が置かれるようになった。それでも紛れ込んできた蚊がいると、福田さんがパンパンと両手を鳴らした。
かゆいのはたしかに嫌いだったけれど、もうあの舌が僕の肘に触れることはないのだと思うと、なんだかちょっと、寂しかった。

赤い腫れも、浮かぶ血の跡も、ずっと消えなければいいのに。

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福←エイくらいで。乾いたテンションの話は嫌いじゃない


(2009.0819)