新妻くんの記憶をたどれと言われたらだいたいの場合背中が出てくる。それはずっと俺が新妻くんの背ばかり見ていたからだ。新妻くんは一度作業机の前に座ると時たま原稿を起きに振り返るだけで、だから顔と顔を合わせることはあまりなかった。

こんな幼い顔をしていたっけ、眼下、ゆるやかな曲線を描く白い頬を見つめながら不思議な気分になる。たしかだが、初めて会ったときはもっと健康的な肌の色をしていたと思う。すくなくとも最初の記憶にある耳たぶはそうだった。最近は以前より外に出る機会が減ったのですこしずつかわってきているのだろう。

細いさらさらとした髪を俺のジーンズに流して頭預け、目蓋をとじている無防備な状態をいいことに触れてみようかと思ったが身じろぎしたのでやめた。なんか眠いです膝枕してください、職権濫用もいいとこな命令をされフローリングの上でかれこれ数十分正座しているんだからそれくらいしてもいい気がするが、眠っている相手に手を出すというのはどうにも卑怯に思えた。かといって新妻くんの起きている間は反対に俺の邪が眠っているのだから、我ながらチキンだと思う。(しかたない、だって俺はただのアシスタントで、新妻くんは俺のことなんて多少仲のいい漫画家程度にしか思ってないんだから。あーあ!)腹でくつくつと笑うと、むうと薄目を開けた新妻くんが気だるげに俺を見上げ睨む。ハイハイ枕に人権はありません、業務内容にもどりながら、俺は焼き付けるようにその健やかな寝顔をずっと、みつめていた。


『頼まれたらいつでも膝を貸すべし』これもリストに追加する。メモ帳やノートの切れ端に一言ずつ書いて新しいページが増えるたびホチキスで乱暴に綴じた対新妻くんマニュアルβ。αには学校編があったが新妻くんはもう高校を出るからいらないと思い千切った。一年以上新妻くんの世話をしてきた俺のまとめたアシ用マニュアルである。洗濯の回数からはじまって、料理にこの具材は入れない、定期的に風呂に突っ込むなど応用編までまとめてある。途中から厚さが辞書レベルになってきたのでホチキスでとめた束の左上を今はガムテでさらにたばねている状態だ。俺はもうすぐこの家を出るから、次に来るアシスタントに置いていく。新妻くんはあのとおりすこし、手のかかる子どもだから、多分こういうものがあった方がいい。入ったものの作家に慣れられずすぐ辞められて困るのは新妻くんとついでに雄二郎だから。

新たに一ページむりやり足した辞書をポンと置くと、すっかり寂しくなったアシスタント机が俺を見返している。数日前まではフィギュアやらバイク雑誌やらがごちゃごちゃとしていたのに、なくなってしまうとこんなにこの机は広かったのか。(よく考えたら作業用のスペースが十分あった上に私物をごちゃごちゃ置ける余裕があったのだから当然か)卒業前みたいな気分だ。答辞は「ちゃんと飯食え」のひとことでいいだろう。

そんなこと考えていると新妻くんがトイレからもどってきた。ぽてぽてと歩く腹を横からむんずつかまえてズボンをなおしてやる。むお!? おどろく声はスルーしてスウェットを持ち上げトランクスを隠してやった。はやくマンガが描きたいという焦りが根底にある新妻くんはたいていこんな中途半端な状態でトイレから出てくるので直してやるのが俺の役目だった。(実際俺は自分のパンツが見えてようが見えてなかろうが気にしないが、それは見えてる自覚があった上でのことだから、まあその、…棚上げだ)ゴムひもをきゅっと引き、くすぐったいですときゃっきゃ笑う子どもを見上げて原稿を渡した。

「これ、最後の分終わったから」
「あ、ハイじゃ雄二郎さん呼びます」

受け取った右手に空いた左手、ついでだから新妻くんマニュアルも渡してやる。予想外の重みを手にした新妻くんはうおと目を見張る。

「これなんです?? 重いです!」
「次のアシスタントに渡しな、たぶんその方が楽だから」
「つぎのアシさんです…?」

仕上がった原稿を一度机に置き、新妻くんの指がぺらぺらと紙束をめくる。ざっと目を通して新妻くんはそれを破壊した。!? 驚いた俺が慌てて引きちぎる手を押さえつけるときょとんとした目が見つめてくる。きょとんじゃねえ!

「お、っまこれつくんのどんだけ時間かかったと思ってんだ! 下手すっとアシスタントの仕事してる時間よりかかってんだぞいやそれもなんかアレだけど、なぜ壊す!」
「え、だってこれいらないです」
「ハア!?」

新妻くんはすこしむくれた顔で、破ったページをいくつか拾い、俺に突きつける。食事は口まで運ぶべし、風呂上りはびしょびしょで出てくるので速攻で拭くべし、汚い字で俺の箴言が並ぶ。超優良マニュアルだろ、なにがつかえないんだ。

「僕こんなこと福田さんにしか頼まないです。アシさんの仕事じゃないです、福田さんの仕事です」
「………………………え?」

思わず三点リーダ多用してしまう程度の沈黙の後、疑問符をかえすと新妻くんはハアとめずらしくため息をついた。

「福田さんわかってないです、ダメダメですね、もっかい苺100パーセント読み返してください」

どういう意味だ、まだ俺は思考が追いついてないんだぞ新妻くん、説明を放棄して背を向けるんじゃない新妻くん、おい。

肩をつかんで振り向かせようとすると妙に乱暴に振り払われた。そのとき垣間見えた白い耳の、真っ赤に染まったのを見てようやく俺は理解する。困った。口元がにやける。ずっと手を伸ばしたかった背中、今日初めてそっと触れてみる。うなじの産毛が震えるのが鮮明に見えた。うしろから腕を回してみると想像していたよりはやわらかな感触と、この家の空気を凝縮した新妻くんの匂いがあった。初めて俺がこの部屋に来たとき、新妻君はきっと今と同じ顔をしていただろう。アシスタントおわりですけど、福田さんは福田さんの仕事があるので、サボっちゃだめです。間近で聞こえるわがままはちょっとだけ震えていた。うん、…うん、来るよ。

数百枚の紙束はその日ゴミ箱に捨てた。



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友人の福エイ本読んだら超滾った!!
タイトルはスキマスイッチの猫になれがなんとなく浮かんだのでもじった
「好き」と言葉にしない告白が好き


(2011.0219)