しまった! 手がすべった! 思ったときにはもう遅く、通話を命じられた携帯電話はプルルルと、呼び出しを始めてしまっている。慌てて止めようとしたがその前に、意図せぬ電話の相手は出てしまった。ピッという短い電子音のあと、はい、やや久しぶりに聞くか細い声で、返事があった。蒼樹嬢。

わりい間違えた、それだけ言って切る予定だった。しかし蒼樹嬢はおどろくほどに、すばやかった。

「もしもし? なにしてるんですか早く来てください、六時にM駅前という約束だったはず!」

なんのはなしそれどういう意味? 聞くことさえ許されず、むなしく電話は切れた。残された沈黙、数秒でいたたまれず、マフラー巻いて、自動車と家の鍵だけ持って、部屋を出た。(こんなときに限ってメンテ中のバイク! 間のわるい!)蒼樹嬢がこの俺に頼みごとなんてなにかあったのかと気になって、切羽詰っていたようすによけいに心配になって、やけにゆっくりと降下するエレベータの中足踏みしながら一階を待つ。

ああくそこんなはずじゃなかった、亜城木くんにちょっと話があって、メールは面倒だからと電話をかけたのに、どうしてこうなった! かっとばす予定の自転車にそなえてぐるぐる巻いたマフラーをうなじで結ぶ。エレベータのドアが開いた。スニーカー蹴って箱を大きく揺らし、走り出す。バイトから帰ってきたばかりだというのにふたたびもどる寒風はひどく、堪えた。(だいたい蒼樹嬢が亜城木くんの上にいるのがわりいんだ! ああ、もう!)

全力疾走、二十分ほどこいでM駅前に着く。駅ビルの大時計をちらりと見上げてから、師走の人ごみの中、目で探す。夕暮れもおわる頃、なかなかその姿は見つけられなかった。かきわけるのに自転車がじゃまだといらいらしていると不意に、声をかけられた。振り向けば案内板の前、待ち合わせの人に紛れて蒼樹嬢が立っている。チラシ差し出すトナカイ避けて、俺は自転車の方向をかえた。すぐそばに近寄ると蒼樹嬢は俺を見上げ、にらむ。

「あなた、どうして来たんですか」
「はァ? どうしてってあんた、」
「来なくていいと何度もメールしたじゃないですか」

言われてジャンパーのポケットにつっこんだ携帯を取り出してみる。新着メール三件はそれぞれちがう文面で、「来るな」というむね書かれていた。じわじわとにじんでくる汗を拭って顔を上げた。蒼樹嬢の顔いっぱいに広がった不機嫌は俺にまで移る。

「…どーいうことだよ、じぶんで呼んでおいて、」
「……変な男に絡まれていただけです、そこにかかってきたからああ言った、それだけのこと。本当に来てほしいなんて微塵も、」
「あんたさあ、じぶんのために自転車すっ飛ばしてきた男に礼のひとつもいえないわけ?」

俺がそう聞くと、蒼樹嬢はぐらついた。揺らぐ視線をなんとか俺に合わせ、けれどやはり決まりわるそうに、ふっと、そらす。

「…携帯を確認しなかった、あなたがわるいんです」
「っああ、そうかよわるかったな! 呼ばれたのにほいほい来ちまって!」
「…帰ります」

くるり、蒼樹嬢は踵を返す。あるき始めたその背を追った。ついてくる自転車の音に怪訝な顔をして、蒼樹嬢が目だけで振り向く。

「ちょっと、どうしてついてくるんですか」
「相手にどんだけ嫌われてようが、女ひとりで夜道帰らせるほどアホじゃねえよ」

また変なやつに絡まれたらこまるんだろ、ことば押し付けると蒼樹嬢は黙り込み、また、前を向いて歩きだした。ついてくるなとは、もう言わなかった。


大通りを一本外れて、人気のまばらな道をゆく。無言だった。空気はしんと冷え、鼻先がつんとする。自転車を引くために袖から伸びた指先は凍えるようだった。慌てていて手袋を置き忘れたのだ。迷いなく進む背についてゆくと、そのうち見覚えのある道に出た。いつかの公園がみえてくる。

ああよかったようやく帰れるとマンションの前思ったとき、不意に立ち止まった蒼樹嬢は言った。

「すこし、待っていてください」
「え、すこしって、」
「すぐですから」

蒼樹嬢は慣れた仕草で入り口壁のボタンを押すと、高そうなオートロックの向こうにさっさと消えていった。ちょっとは人の話を聞いたらどうなんだと小一時間。

かじかむ両手を何度も握り、息吹きかけながら待っていると蒼樹嬢が出てきた。文句のひとつも言ってやろうと頭の中でかけるべき言葉を考えていたのに、すい、としろい紙袋を突きつけられて押し黙る。

「…? これ、」
「勘違いしないでください、クリスマス用につくったのが余っただけです」

それだけですから。きつくそう言って俺に強引に押し付けるとそそくさと、蒼樹嬢は扉の向こうにもどってしまった。しばらく、呆然と立ち尽くしたあと一息の風に吹かれやっと思考がめぐりはじめる。なんだかしらないが蒼樹嬢なりの礼らしい。中には手のひらほどの大きさの、しろい箱が入れられている。崩さないよう丁寧に前カゴに置いて、俺はサドルに跨った。


そうして自転車に乗って地面を蹴りだして、すこし行ったころようやく、鈍い俺は気がつくのだ。蒼樹嬢は俺が来てすぐに、家路に足を向けた。つまり、もう駅前に用事はのこっていなかったということだ、俺を待つこと以外。

べつに帰ったってよかったはずだ、来るなと何度もメールをしたんだから。それなのにわざわざ二十分も、寒空の下待っていたのにはそれなりに思うところがあったのだろう。なんだ、口元がゆるむ。

(やっぱ、根はいいやつじゃん)

通りすがる人に見られるのはなんだか癪で、マフラーは鼻までぐいとかぶせた。寒さは不思議と、いくらか弱まったようにおもえた。


箱の中にはカップケーキがひとつちょこんと、入っていた。手先はあまり器用ではないのか、多少焦げていたけれど手作りの味は一人暮らしの胃に染みた。空腹にばくばく詰め込んで、包装紙だけがのこった机の上見てはっと、中井さんごめんとこころであやまる。ふたつあったら片方やったんだけどさ、わりいな、届くはずもないのに内心つぶやいて、それから、考え直す。

(…やっぱ、ふたつあっても両方食ってたわ、わりい)

素直じゃない彼女の手作りは、つくり手に似ず、ふんわりとあまくて、うまかった。

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Snow Flower さまに寄稿

(2009.1224)