(R-15)
机の一番上の引き出しにしまってある書類の、日付を見て欲しいといういたって簡単な、頼みだった。しばらく電話の向こうから返事のなかったのはその書類が見つからなかったからではなく、書類のそば、その写真を見つけてしまったからだろうと、いま、わかった。丁寧に書類の下にもどしてあったが、動かした跡があった。 古びてすこし端の黄ばんだ、十数年前の写真。目だけでいないのを確認して、そっと持ち上げた。 今は亡きかつての、(――かつての何だ? 友人、ちがうな、担当をしていたわけでもないし、しかしたまに飲みに行くことはあった、・・・わからない)かつての、とりあえず知人と、肩を組み赤い顔をした、新年会の。 瓶子はこの写真を見た。間違いない。失敗した。きっとあいつは唇を噛み締めたにちがいない。それから一度眼鏡を上げる。我慢するときは決まってそうする癖がある。(会社の引き出しなどに入れっぱなしにしておくべきじゃなかった)写真の端を握りしめ、浮かびくるのはかすかな懐旧と堰き上がるような後悔だった。 四年前のことを、私は、完全に忘れたわけではなかった。ただ、目を背けていただけだ。 今から四年前、川口たろうの一周忌、盆の終わりに墓参りに行った。葬式から一年、忙しさを上塗りしようとしてできずにただ思い出しては彼を追い詰めてしまったことに苦しみながら、いつか飲んだ飲み屋に一人で訪れては無意識、酒飲み客にその姿をさがしていた日々から逃げ出した日。逃避のはじまりの日、今になって鮮明に思い出される。 私は川口たろうの死を、わすれたかったのだ。 忘れたくて、逃げてしまいたくて、瓶子につけこんだ。人がよく、じぶんを慕っていた後輩を、私はつまり、利用した。私が言えば拒まないだろうことはよくわかっていた。瓶子はいつも、面倒そうな表情はしてみせたが私のいうことはよく聞いてくれたし、慕われているのも知っていた。 墓参りの帰り、酒が飲みたいと自分から誘ってわざといつもの何倍も、飲み干して肩にもたれながら見知らぬ夜の街をあるいた。終電もとうになくなった時間だというのに熱帯夜、ネオンの太陽を浴びて蒸し暑く、あついあつい、さんざん言って困らせ近場のホテルに連れて行かせた。手狭なビジネスホテルにチェックインしてエレベータの中管巻いて、部屋にはいるなり硬く、ごわごわした絨毯の上に押し倒した。まずいですよと慌てた顔をしていた後輩の喉に噛み付いて酒臭い口を押し付けた。戸惑っていた指はそのうちあきらめたように、あるいはなだめるように私のわき腹に置かれていた。ひどく身勝手に身体を揺らし溺れながら、ドアの隙間から時折差し込む冷ややかのために現実に引き戻され、夢であれば、堪えるように眉間に皴よせじぶんを見上げているのが、彼であればよかったのにと、身勝手に泣いた。 目覚めると最中に切れたのか、絨毯には点々と朱が散っていた。浴室からタオルを持ってきてつよく拭っていた瓶子は、ともすれば、その夜の記憶も消してしまいたかったのかもしれなかった。 しかし一度となく関係はつづいた。二度目は瓶子から、残業の帰りにそれとなく誘われおどろいた覚えがある。それからはどちらから言い出したのか定かでない。 数えるのもばからしくなるほど寝た。本当に、自らの身勝手に胃が痛くなる話だが、俺は数年のうちに川口氏に抱いていた感情など風化させ、手近な後輩に恋情めいたものをおぼえるまでにいたっていた。単純なじぶんに嫌気が差す。はるか昔子どものころ、大人というものはもっと複雑なものなのだとおもっていた。年をとるほどに単純になっていくじぶんはなんなのだろう。ああ、胃がいたい。このタイミングで写真を見られてしまったのは、あるいはあさましい利己主義への報いなのかもしれなかった。 瓶子は勘違いをしただろうか。そうかもしれない。いい年をして未練がましい男と、あきれたかもしれない。しようのない話だ。しかし困ったことに、何知らぬ数時間前の私は今日はもう瓶子を家に呼んでしまった。素直にうなずいた後輩の、今思えばなんと従順なことか。いまさら来るなというわけにもいかず、とにかくあいつの好きな酒を出してやろうと思案するくらいしか、私にできることはなかった。 ソファに並んで座り、上等なワインをあおりながら、いつも以上にムードもなにもない、句読点の位置をまちがえたような会話をしていた。瓶子は出された酒にすこし喜んだ表情を見せたが普段とかわらず、調子のおかしいのは私だった。写真のことを意識してしまい、どうにも、あいづちも気の抜けたものになり、話題の変わったころようやく瓶子の言いたかったことを理解しああとうなずく始末。そのうち興のそがれたのか瓶子はコトリ、ガラステーブルにグラスを置いた。尽きる会話のかわりに、小さなため息が流れる。切り出したのは瓶子だった。この前のことですけど、という前置き、すぐに察する。グラスを握る手に力をこめてしまい、麦藁色が震えた。責められるのに耐えられず、私は焦って口をひらいた。 「その、なんだ、す、すまなかった」 「……まだ、なにもいってませんけど」 なんであやまるんですか、淡々とした問いはさっきまでほろ酔い気味にやわらかく話していた声とはあきらかに異質だった。狼狽しながら、しかしとにかく謝らなくてはと意識がはたらいて、絞り出すような思いで核心に、触れた。 「写真を、見たんだろう」 答えをききたいような、ききたくないような、そんな気持ちだった。つかの間、おいてから瓶子は小さく、小さくうなずいた。(ああ、やっぱり――) 「わるかった、私は、」 「いいんです、気にしてません」 「! だが、」 反論しようとした口は強引にふさがれた。口付けはひどく乱暴で、つかまれた腕の先からワインが滴り落ち、チノパンを濡らしたのがわかる。押し込まれた舌を避けてなんとか釈明、言い訳をしようとしたが、執拗に追ってこられてはそれもかなわなかった。なんとかグラスを、遠いテーブルに私が置くと瓶子は私を押し倒した。革のソファが軋み、床におろしていた脚を持ち上げられて流されそうになる。単純な、単純すぎるじぶんに泣きたくなりながら、目を閉じようとしたとき、ふと一滴、間接照明にきらめく。ワインではなくもっと、透明なそれが鼻をつたい髭に絡まって、そのあたたかさ、ああ、泣いているのだと気がついた。呼吸がしづらくなったのか、ようやく瓶子は私から身を離し、首筋に顔をうずめ野良犬のように、息をした。もしくは、泣き顔をみられたくなかったのかもしれなかった。 「…へい、し、」 「……すみません、でした」 「なにを、あやまる必要があるんだ、」 「すみません、…すみません、俺は川口さんが、亡くなったのが一瞬、うれしかった。醜い、みっともない男なんですよ、もしかしてあなたが手に入るかもと思ってしまった。軽蔑されても、しょうがない」 うわごとのように話すそれは、衝撃だった。私の長年悔いていたように、瓶子にも思うところがあったとは知らなかった。しかし瓶子がそんな事情を抱えていたとはいえ、利用した私にも非があることはかわらない。手のふるえるのをおさえながら、私は言った。 「私の方こそ、すまなかった。彼の、…彼の代わりにしていたんだ、おまえを」 「っ!」 やっぱりと、瓶子はつぶやく。半ば確信していたらしいようすに、いたたまれなくなった。 「わるかった、本当に、」 「いえ、身代わりにされたって文句を言える、立場じゃありませんよ」 鼻先が押し付けられた。一筋また一筋、落ちる熱が鎖骨を流る。ごめんなと、ささやくともうやめてくださいと瓶子は言った。誤魔化したいような手で、ワイシャツのすそをめくる。押し流されないようにつよい口調で、私は言った。 「自己中な男で、すまない。いまさらなにを言っても、」 「やめてくださいって、いったじゃないですか」 「…何を言っても、しらじらしく聞こえるかもしれないが、私は、…私はおまえが、好きだよ」 ぴたり。鼻をすすっていた音が、止まった。訪れた沈黙には、狼狽の気配があった。勝手な話で、申し訳ないがと、つけたすと瓶子はきつく、シャツを握った。 「本当に、ずるい、人だな」 「…すまない」 「そう言えば俺が、許すと思ってるんだ、いつだって」 否定はできなかった。この男の良心につけこんだ私だ。瓶子は喉で笑う。 「でも、いつだって許してしまう俺が、一番、わるいんでしょうね」 ふたたび押し付けられた唇はしょっぱかった。濡れた頬を舐めとると、みっともないからやめてくださいと瓶子は笑った。触れる手はいつもより性急だったが私はだまって受け入れた。骨ばった背に手を回してようやく、私は、この男を手にした気がした。 ++++ もし後編待っていた方いらしたのなら、どうもすみません おそくなりました。そしてなんか商業BLっぽくなった 年上の人は、書くのが、むずかしい。若輩者です ていうか三ヶ月前の文章ってもう古くなってる。恥ずかしいよね 地の文の長さが明らかにちがうんだもの (2009.1122) ← |