※お互い奥さんがいます




映画に行かないか、などと、誘われたのは何年ぶりだろうか。春物のコートを羽織って寝起きの家内に一言ことわり家を出る。

十一時半からの洋画だった。銀座まで一本乗り継いで地下鉄を降りる。複雑な出口の多さに辟易しててきとうに外に出ると反対方面だった。ちらりと腕時計を確認すれば時間にはまだ余裕がある。春先の風にどこか表情やわらかな人々の波にゆっくりと紛れながら、そういえばずいぶん前にもこうしてこの道を通った気がするな、遠い記憶がふと脳裏をよぎった。

あの日はそう、おそらく私たちが社外で初めて顔を合わせた休日だっただろう。もう十年以上も前のことになる。思い出すと恥ずかしいが付き合い始めた当初の私たちにとっては初めてのデートだった。季節もたしか今どき、路傍の花がすこしずつ開きはじめたころのことだ。あのときも目的地は同じ映画館だったように思う。彼とは何度となくこうして出かけたからはっきりとは覚えていないが、おそらくそうだ。盛大な寝坊をされた記憶だけはしっかとある。次の角を曲がって見える映画館の前で俺は二時間も待ちぼうけを喰らったのだ。

今日も同じようであったならこのあたりで一番高級な中華を奢らせてやろう、思いながら曲がるとしかし編集長、(…いや、)佐々木氏はすでに一階のチケット売り場のまえで腕組みして立っていた。俺の姿を見つけると時間前にもかかわらず偉そうに遅かったななどといって片手を上げてみせる。お年寄りとちがって朝早くないもんで、皮肉でかえしたが片頬をゆるく持ち上げられただけだった。このごろ笑う回数が増えたとおもう。(やはり年をとったせいではないかとこれは、わりと本気でおもう)

コートのポケットから出したチケットをすっと渡される。財布を開こうとすればいつになく機嫌よさそうな顔でいいと言われたからしまった。

地下シアターへの階段をおりる。連れ立ってあるくのは久々のことだった。彼が別雑誌に移ってからというもの昼を共にする回数もめっきり減った。うっすらと鼻歌など口ずさむ隣の中年がきらいではない。

入り口でチケットを見せる。売店でアイスコーヒーを頼んだ。隣の男が気まぐれにポップコーンを頼もうとするのでピシャリ叱る。あんた自分で頼んでろくに食べたためしがないでしょう。痛いところを突かれて彼は肩をすくめ、コーヒーを二人ぶん受け取るとさっさといってしまう。受付でタオルケットをもらい後を追った。チケットはちらりと見ただけだったがどうせ彼の好きな右端か左端の席だろう。ちなみに俺は真ん中が好きだ。

そうしてF列一番と二番、予想通りの席に着きCMが始まるなり彼は寝た。いつものことである。自分で誘うくせに映画が始まるとすぐに寝るのだ。すこしばかり薄くなった頭が肩によりかかってくる頃合いをみてタオルケットをかけてやった。スクリーンでは未だ関係のない洋画の宣伝が流れている。もたれる頭を気にしながらシートに座りなおし、ひとり映画を観ることにした。


久々に観た映画は一言でいえば駄作だった。そうだった。この人はマンガを見る目はあるくせにこと映画となるとB級ばかり探し出す能力を遺憾なく発揮してくれるのであった。最後に観た映画など思い出すのも億劫なほどつまらなかったのでそういえば忘れていた。

くあ、と大きくあくびをしながらとなりを歩く男はそれでどれが主人公でどういう話だったんだなどと無責任に聞いてくる。あんたが選んだんじゃないのかよと思いながら道々映画の説明をさんざんしてやった。そうして話してやったわりに感想はほー、の一言である。横目でにらむとようやくありがとうが添えられる。癪である。そういわれると俺が満足してしまうのなんてきっとわかりきっているのだ。腹いせに甘そうな匂いの外まで広がる喫茶店に入る。数分で後悔した。黄色いさざなみの流る休日午後の銀座、男二人はつらすぎた。なんとなし居心地わるそうに向かいの男が足を組み替えてばかりいるので多少はむくわれたが。

軽い昼食を終えるとどちらからともなく店を出て人気の少ない喫茶店に移動した。窓が広く明るかった先ほどの店と比べると照明も店のたたずまいもひっそりとしており、座席も少なくエスプレッソがうまかった。

おまえも大概付き合いがいいよな、壁ぎわの席に落ち着くとカップに手をかけながら彼が言った。

「ひまなんですよ」
「細君がいるだろう」
「あれはワインでも買っていけば上機嫌ですから」
「…まあうちもそんなものだ」
「ハハハ」

ひとくち流し込んでしばし沈黙だけが響く。ゆるく流れるジャズがいい。ひどく穏やかな心持だった。佐々木さん、いつぶりかわからない呼称で呼ぶと彼はいくらか間をおいて、ああ自分のことかとようやく気づいたように俺を見た。くしゃり、笑うと堅物のくせにえくぼができるそんな可愛げが俺はずうっと昔から好きだった。ほんのすこしだけ迷ったがゆっくりと口をひらく。俺たち終わりにしていませんでしたよね、言葉はおどろくほどするりと喉をながれて出た。彼は数度まばたいてああ、と低くうなずく。そんなことを言われる気がしていたよ、俺の好きな顔で男は笑った。

付き合っていた期間ははたしてどれくらいだっただろうか。あいまいすぎてよくわからない。気がつけばよく飲みにいくようになり、休日をともにするようになり、出かけるようになり、共寝するようになっていた。一緒にいるのは空気を吸って吐くよりも当たり前で、楽なことだった。ともに口数の多いほうではなかったが彼が一をいえば俺は十を察したし、逆もまたしかりであった。酒の趣味もよく合ったし、若いころは昼夜となく交じりあって一日終わることもあったからセックスの相性だってきっとわるくはなかっただろう。

そんな私たちのあいだにすこしずつ距離が生まれたのはおそらく、彼が編集長という肩書きの名刺を持ち始めたころのことだったとおもう。副編集長に昇格した私もそれまで以上に忙しくなった。休みの日がかち合わなくなった。自然と顔を合わせるのは会社にいるあいだだけになった。

そんなとき今の妻に出会った。かわいい人だった。こいつには俺がいないと、そう思わせる女性だった。私たちが交際を重ねるあいだに編集長は結婚した。数ヶ月それを追うように結婚式のスピーチを頼んだ。編集長はいまとおなじ笑顔でそれにうなずいた。妻のことはその頃からかわらず愛している。

空になったカップを置いて佐々木さんが立ち上がる。払っておくから、私のすこし後に店をでてくれないかと彼はいった。ひとりで帰りたい気分なんだ。俺はうなずき、支払いを済ませてガラスドアを開ける彼のすこし小さくなった背中を黙って見送った。カランコロン、カラン。小さな喫茶店の鈴が奏でる音は、別れの音にはちょうどよかった。

きっと明日からはまたちがった俺たちの関係がはじまるだろう。ゆっくりと店をでるとやわらかな春の予感が頬をさらり撫ぜた。



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妻と書いてサイと読むのがとても好きです

(2011.1117)