もとあったところに捨ててらっしゃい、玄関に仁王立ち腕組んで告げたが娘はガンとして首を振らない。そのとなりで俺を見上げるのが可愛らしいチワワやポメラニアンならまだよかった。飼える見込みがあるかどうかいくらかは検討したであろう。 犬を飼いたいの、温厚でわがままなどとんと言わぬ娘がそういって連れてきたのは、どう見てもパンダの着ぐるみを着た貧相な男であった。だぼっとしたタイプではなく妙に体にフィットするタイプなので痩身がよけい目立つ。しかも中古で買ったのか、しょうゆか何かの染みが腹のあたりに付着していた。そして着ぐるみですと主張するように顔だけ布がくり抜かれその面はどう見ても人面、二十代くらいだろうが今にも死にそうなクマが目の下に刻まれているし、だいたいザックリ切られた髪まではみ出ているではないか。娘よ何を以てこれを犬という。 根拠を尋ねれば近所の公園でブランコの争奪にすら敗れ小学生にバカにされていた人生の負け犬だったので気の毒に思い拾ってきたのだという。そうか、納得した。しかし納得しようがしまいがうちでは飼えん、変質者として警察に突き出してきなさい。けれどやはり娘は飼うといって聞かない。しかたなくパンダ…のような犬のような男に尋ねた。 「えーと君、君はなんなの、なんで平然とうちで飼われようとしてんの大体パンダなの犬なのどっちなの」 男は俺をじろりにらむと言った。 「どっちだっていいですよ僕は働かなくて済むならそれでいいんだ。パンダになればただ愛でられる日々が送れるかもと思ったが誰も飼い主になってくれないし人生最後のパチンコは盛大にすったし鳩の糞は当たるしジュース買おうと思って小銭出したら落として自販機の下に入っちゃって取れるか取れないかのところで結局とれないし。ひょっとして今は彼女の言う通りただの負け犬なのかもしれない」 まあひょっとしなくてもそうだと思うがとにかく外見の残念さと同じく中身も残念なのはよくわかった。残念ついでにこの家にも君の寝泊りする場所はないさっさと公園に戻ってダンボールでもなんでも集めなさい、そう、言うつもりであった。一人娘は、最終兵器をつかったのだ。 「お母さん、飼ってくれないのなら私、この犬を連れてしばらくお隣の山久さんの家に泊まります」 「…！」 困ったことになったぞ、と思った。娘は相当本気と見える。そもそも俺がダメだと言ったことを二回以上頼むことがまずない。娘よよほどこの負け犬が気に入ったのか。お母さんにはそのセンスがわかりません。きっとそこらへんは父親の遺伝子を継いだにちがいない今日帰ってきたらＮＯ枕を廊下に置いて寝かせることを決意しながら、しかたなく首を縦に振った。 これほど可愛い一人娘をとなりの男所帯に泊まらせるなどできようはずもない。大体ただの男所帯ですらない。胡散臭い家主の山久は妙になれなれしい隣人で、一年ほど前に隣に越してきたばかりだというのになぜかうちの娘の扱いが上手く俺より娘に懐かれているし、その山久となぜか同居している静河くんという青年も無口なので正直よくわからん。嗚呼まったく我が娘ながら最強の切り札を使ってくる。頭痛をこらえ、娘と嬉々としてハイタッチする犬に向き直った。 「おい、犬」 「犬ではありません平丸です」 「なにを言ってる君は犬という名目でうちにやってきた。だったら最後まで犬を貫け、君の家はうちの庭だ」 「なっ、なんですって！？」 さあ来い、娘だけ家に上げるとサンダル履いて犬の腕を乱暴に引き一軒家の裏に回る。洗濯干しの並ぶ庭の隅には以前飼っていた大型犬の小屋があった。埃かぶっているがまあ二足歩行してる人面犬なのだからそれくらい自分で払えるであろう。九月だしまあのたれ死ぬ心配もあるまい。さあ貴様の家はここだ。指差すと犬は明らかに不満そうな顔をし、ガラス越しの居間に上がった娘に助けを求めるよう両手、ならぬ前足を丸めるポーズをとってみせた。（…人間としての尊厳は、本当に捨ててきたんだな…）娘はニコと笑い手を振り返す。そして自室の方に去った。犬が飼えることでひとまず満足したらしい。かなしそうな目で背を追う犬には気づくようすがない。決まりである。 夜は遠吠えするなよ、しょげる肩をぽんとたたきガラスを開けて家に上がろうとするとガシリ、腕をつかまれ目線で懇願されたので笑って言ってやった。 「心配するな、猫缶くらいなら出してやるから」 凍りついた犬を放って窓を閉める。く、くうんと情けない声が聞こえたがカーテンを閉めたら諦めたのか聞こえなくなった。すこし待ってベージュのカーテンのあいだからそっと覗いてみるとそそくさと自分の家の中を片付けていた。適応力の高い犬種だな、思いながらキッチンの下の引き出しを開けて食事を物色した。なに、娘が飼うといって聞かないなら自分から出て行かせればいいのだ。みていろバカ犬変質者。 （絶対追い出してやるからな！） （2012.0628）