吉田氏は僕に首輪をつけ、ポチと呼ぶ。

吉田氏というのは僕を拾ってくれた蒼樹嬢の母君のことで、この佐々木家に君臨する女帝のことである。公園で世を儚んでいた僕にあたたかい手を差し伸べてくれたやさしい蒼樹嬢とはちがい、僕を完璧に犬扱いするのだと細い目をつり上げ虎視眈々と僕が根負けして家を出るよう画策している。

犬ならこれくらいできるだろうと言って毎日ゴミ出しと新聞取りと家中の雑巾がけを命じるのも、その一環である。これがなかなか骨が折れる。佐々木の家はこの住宅街でもひときわ大きい一軒家で、一階はリビングダイニング、トイレ、風呂、和室が長い廊下でつながっており、二階には住人の数だけ部屋がある。肩身の狭い家主の佐々木氏は倉庫同然の部屋に寝かされているのでそれは数にかぞえなくていいにしてもけっこうな広さである。吉田氏は僕がきちんと働いているか横でいつも監視しているのでサボることもできない。これじゃあ以前の営業職の方がよっぽど楽だったんではないか、黒い耳のついた頭をひねりながら今日もトイレのタイルをせっせと磨く。

ひととおりを終える頃、キッチンの方から「ポチ、ご飯だぞ」声がかかった。はあと一息ついて立ち上がる。雑巾を洗面所に持っていき洗い絞ったところでふと気がついた。毛皮(吉田氏が着ぐるみと呼ぶのが癪なのでこう呼ぶことにした)がずいぶん薄汚れてきてしまっている。そういえば佐々木の家に来てから数週間、下着は父親のお古を借りているが毛皮は一度も替えていないのだから当たり前である。どうしたものかと悩んでいると、「ポチ、ご飯下げるぞ」一日の数少ない楽しみさえ取り上げようとする女帝の声に僕は吠えた。ワン! これは今行きますなどという従順な返事などではなく、このナルシストロン毛野郎いつか見てろ! という意味。

つつましい生活の中、ご飯だけはうまかった。皿はいつも乱暴にフローリングの上に置かれていたがあたたかい家庭の味は六畳一間に暮らしていた頃であれば味わえたはずもないものばかりで、犬用の小さなスプーンでも僕は気にせずむしゃむしゃと食った。吉田氏が作りすぎてしまった日などは多少おかわりの利く日もあり、空腹に苦しむことだけはまったくなかった。

午後は一匹、家の番をしたり、または庭の手入れを手伝ったりして過ごす。吉田氏は家庭栽培が趣味で、暇があれば土いじりをしている。今日とて例にもれず、家事を終えた吉田氏は今秋特に力を入れているのだというタマネギの種と格闘していた。

僕は手伝いを命じられるまではいつも自分の小屋からその背中をじっとみている。与えられた小屋は大人ひとりが寝たって余裕があるくらい大きく、犬小屋にしてはずいぶん立派であった。自分の城にゆったりと寝そべり、このときばかりはおだやかな吉田氏を眺めているといつも僕はいい気持ちになり、たいていはねむってしまうのだった。

うつらうつら、いつものように落ちかかったまぶたをふと持ち上げる。枕にした両の手首に目がいった。ドンキホーテで買った安物の毛皮は日の光の下で見るとよけいに汚れて見える。さすがにこれはまずいな、思いのそりと起き上がった。

散歩という名目で付近の買い物に付き合わされていたので、寂れたランドリーがごく近くにあることは知っていた。家で最も地位の低い父親の衣類をすこしばかり拝借して外出する。土と闘っていた夫人が気づく気配はなかった。

佐々木家から徒歩一、二分のところにあるコインランドリー、久々に人間らしい衣服をまとい、毛皮をガランゴロン洗濯する。買い物のついでに駄賃だと気まぐれに渡された小銭でなんとか足りた。終わるのを待ちながら、棚に置いてあった週刊雑誌を読んだ。少年ジャンプなど手に取ったのはそういえば初めてだ。慣れない手つきでぺらぺらとめくっていると乾燥が終わった。

公園のトイレで着替えて帰宅する。気ぐるみであることなどとっくにバレているのだから家で着替えたって問題ないのだが、なんだか毛皮を着ていないところを見られるのは妙に気まずかったんである。吉田氏は不在のようであった。薄暗い夕方の赤い廊下から居間、吉田氏の私室までのぞいてみたが姿がない。番犬をいいつけられているときと同じく玄関の前に正座して待つことにした。毛皮はすっかり綺麗になって、いくらか肌触りがかわったがいい匂いがして気持ちがよかった。ふんふんと時折り手首のあたりを嗅いでみたり、ぐうぐうと鳴り出した腹をおさえたりしながら待っていた。

我ながらすばらしい番犬っぷりである。帰ってきたら褒めてもらわねばなるまい、そんなこと考えているとようやく玄関の鍵が開く音がした。反射的に顔を上げるとバタン、勢いよく開いたドア、目を丸くした吉田氏と目が合った。はあ、はあ、響く音が荒ぶった息遣いだと気づくには少々時間が要った。吉田氏の手が伸びる、と思った。

気づいたときには首輪をつかまれ乱暴に、持ち上げられていた。首が痛い、思わず血管の浮いた手首に縋ればギリと、音のしそうな目つきで睨まれた。息が、苦しい。

「よし、だ、氏…なに、を、」
「…どこ、いってたんだよ」
「あ、あの、僕、コインランドリーに、その、」
「っ! なんでなにも言わないで出ていくの! おまえうちの犬なんだろう! 犬なら犬らしく繋がれてろよ!」

熱い、と思ったのが、頬に飛び散った吉田氏の涙のせいだと気づいたのはいつだっただろうか。ひどく動揺する吉田氏に僕はそっと腕を回すことと、僕はなんて駄犬なのだろう、自分を責めることくらいしか、できずにいた。

吉田氏は黙々と夕食の準備をした。週に二度の塾に通う蒼樹嬢と、平日はバイトに明け暮れる兄の福田くんはまだ帰らない。仕事に追われる佐々木氏はもっと帰らない。気まずい沈黙のまま、吉田氏が芋の皮を剥くのを食卓の横にお座りして見ていた。

吉田氏を泣かせてしまった。さっきまであんなに恐怖の支配者で、僕のどんな抵抗だって押しつぶしてみせる存在だったのに。いつかみてろと思っていたのに、いざあんな風に弱い姿を見せられるとこんなにも戸惑ってしまうのはなぜだ。だいたい吉田氏、僕を追い出したくってたまらなかったくせにどうして僕がいないだけであんなに動揺したのだ。わけがわからない。

僕がちんまりと座っていると、振り向いた吉田氏はもう赤くない目で僕を見下ろし小皿を差し出した。

「ポチ、味見」
「あ、は、はい」

言われるままに受け取り舐めればカレーである。甘口だろうか、たぶん蒼樹嬢に合わせた味なのだろう。おいしいです、いつものように返せばそうかとうなずいたきり、吉田氏はまた料理に向き直ってしまう。僕が聞かなきゃいけないのだ、お玉を持った手をとっさにつかんだ。黄土色がぽたりぽたりと散ったが気にしなかった。

「吉田氏、今日は、僕がわるかった、その、…ごめんなさい」
「…べつに、「どうして、あんなに取り乱したりしたのです」!」

顔色を変えた吉田氏は目を泳がせている。鍋のぐつぐつと煮立つ音が広い部屋にやけに響いた。縋りついた手は離さず、視線もそらさない。しばし迷ったようだったが、ため息をついて一度火を止めた吉田氏はエプロンの紐をするりと解いた。


ポチというのは以前この家で飼っていた犬の名前なのだと吉田氏は言った。数年前まで可愛がっていたレトリバー、あるとき首輪をつけ忘れ、まだ小さかった蒼樹嬢の面倒をみていた隙にふらりと出て行ってしまったそうだ。実際は相当年の行ったおじいちゃん犬で、みずから死期を悟っていたのかもしれないと、淡々と吉田氏は話した。その分つらさも知れた。僕はなんてばかなことをしてしまったんだろうと、今度こそ本当の意味で気がついた。吉田氏は話しているあいだじゅう食卓のイスにもたれ、顔だけ伏せていた。唇がいささか震え、拳がかたく握り締められているのを、しかし床に座っていた僕はしっかりと見てしまっていた。思えば吉田氏は専業主婦で、昼間は家にひとりきりで、ひょっとして、――寂しかったのかもしれない。たまらない気持ちになって、僕は床に膝をつき吉田氏の手を取って見上げた。

「吉田氏僕は、ずっといますよ」
「…なに、いってるの」
「ずっとここにいます、駄目な犬ですけど、駄目な犬だから他に引き取ってくれる家もありません。寿命もたぶん長いです。だから吉田氏が寂しいときは、いつも、僕がいます」

言いながら最後はすこしだけ泣いてしまった。きっとこの首輪がわるい。首輪というやつにはご主人様認識機能みたいなものがついているらしい。いつのまにか、自分でも気づかないうちにきっと僕は吉田氏をご主人様として存外、大切に思っていたようなのだ。(なんだか癪だから、ぜったいにその呼び名で呼んでは、やらないけれど)

バカ犬のくせに、そう言ってくしゃりと吉田氏は笑った。そうして目元を軽くぬぐい立ち上がった。

「カレー、甘口が好きなんだろ、平丸くん」

しばらく自分の名前だと気が付かなかった。吉田氏が僕のために甘口を選んでくれたのだということも。はい、というかわりにワンと吼える。今度の意味は、教えてあげられそうにない。

その日から僕は平丸になった。そうして自分の意思で自分の首に、皮紐を巻くようになった。




(2012.0628)