グルル、低い唸りはペシリはたかれてキャインと地に伏せた。僕の頭を容赦なくはたいた吉田氏の持つ鎖がピンと伸びて繋がれた首が痛い。お隣さんを威嚇するんじゃない、頭を押さえながら起き上がり見上げると吉田氏はピシリ僕に言う。「お隣さん」は苦笑して会釈し、自宅にもどって行った。得心いかぬ。なぜ僕が殴られなくてはいけないのだ。二本足立ち上がり心持ち背伸びをして吉田氏を睨めば犬のくせに二足歩行など生意気だと膝を蹴られ再びキャインキャイン。(なにもすねを蹴らなくたっていいじゃありませんか鬼田氏!!)夕方ご飯どき、通りすがるご近所さんがあらあらこんにちは声をかけてゆくのに吉田氏はどうもと外面貼り付けながら僕の腹をキリキリとかかとで踏んできてめまいがした。

理不尽だと思う。なぜ僕がいけないのだ。いけないのは山久氏に他ならぬと思うのだ。山久氏というのはお隣の家に住む青年のことである。聞いた話によると同居人のヒモとして生活しているうさんくさい男らしい。その同居人というのも男なのだから関係が知れぬ。とかく得体の知れぬ山久氏を僕はあまり好きではない。吉田氏を妙な目で見るからだ。

さっきだってぐうぜん駅前で行き合ったにすぎないのにまるで運命の出会いとでも言わんばかり大げさに話し僕と吉田氏の散歩に乱入してみせた。おかげで今日のお散歩コースはいくらか省略されてしまう。そうしてやまひさではなくやらしさの滲む視線を僕の主人に向けてくる。あの下睫毛気にいらない。佐々木の家の前に着いたって吉田さんは普段なにしてるんですかええ家庭菜園? 奇遇だなあ僕も最近興味があるんですよなどと延々にやにや話し続ける始末。おのれ山久ゆるせない。かわいい飼い犬がすこしばかり威嚇したってしようがないというものだ。

それを吉田氏しつけなどと言って夕飯を普段の半分しか出してくれないなどあまりに酷すぎる。(僕は主人の身と夕飯の準備の時間を不埒な隣人から守ろうとしただけなのに! だいたい今日のご飯僕の好きなオムライスではないですか! ひどい!)

家人の帰り遅くふたりでとる夕食、腹の虫をときおりぐうぐう言わせながら机で食べる吉田氏をにらんでも僕の小さなオムライスが足される気配はない。

犬らしく机の脚にカツンカツン頭ぶつけ催促してみるとようやく重い腰を上げたのでおおと思ったらしかしその足がキッチンへ向かうことはなく食器棚からなにごとか取り出した吉田氏は妙にご機嫌でもどってくる。手には小さな日の丸旗があった。即席手作りらしく、日の丸の赤円や爪楊枝と紙の接着などはかなり雑だ。しゃがみこんだ吉田氏はなにげない手つきでぷすりとそれを僕のオムライスに刺してみせる。ぽかんと口を開ける僕ににこりと吉田氏は満面の笑みを浮かべた。

「わかってるよ、お子さまランチにして欲しかったんだろ平丸くん、さあさっさと喜んで食べるがいい」

!!!そういうことじゃありません!!! 成人犬に与えるには少なすぎる食事を僕は増やして欲しかったのに吉田氏の嫌がらせはとどまるところを知らない。吉田氏が平丸と呼び僕は首輪をつけることで一応形式的な和解はしたがやはり僕を追い出すつもりにさらさら変わりはないらしい。涙を呑んでもぐもぐとオムライスを食べた。味だけはやはりうまくてくやしかった。

満腹感のない食後を居間の床に寝そべって過ごす。吉田氏は食休みにソファに座ってテレビを見ていた。家人もまだ帰る時間ではない。テレビはタイムリーに不倫の話題など扱っていて僕の毛並みがざわざわする。ドンキで買ったサンキュッパが勝手に動くはずもないが、そう感じるのだからそうである。なんとはなし落ち着かずちらちらと吉田氏を見遣った。膝丈のスカートを気にしてふいに足をとじた吉田氏はそのままの動作で僕の頬を踏む。なんという自然なドメスティックバイオレンス泣いていいですか吉田氏いいかげん泣きますよ。スリッパを離した吉田氏がこのえろ犬めと僕を蔑む。

「それをいうならあの隣人の方でしょう!」

思わず声を上げ、意外なほど部屋に響いたのに身をすくめる。吉田氏はきょとんとした顔で僕を見ていた。山久氏はそういう目で吉田氏を見ていたではありませんか、もごもごと付け足せばなんだそんなこと、吉田氏はため息をつく。

「見てないさ、だいたい俺は人妻だよ。どうかなりようもあるまい」
「…ヒトヅマだって関係ないと思う輩だったら、どうするのです」

吉田氏は数度、ゆっくりとまばたいてそれからバカバカしいとテレビを消し立ち上がる。バカバカしいとはなんです、僕がつっかかろうとすると腕まくりをしてキッチンに歩き出した背中がぽつりと言った。

「うちには番犬がいるんだから問題ないだろう」

今度は僕がまばたく番だった。二度、三度、くりかえしたところでなんだかへんな気持ちになる。犬ってやつは、みんなこんな気分がするものなんだろうか。皮膚の内側がそわそわとして、ただひたすらに走り出してしまいたいような、へんな気持ちだ。吉田氏がりんご食うかと空腹を呼ぶ。キャイン! すこやかな返事をして僕は思うままその足に駆け寄った。

包丁持ってるときに飛びつくなころすぞ? 絶対零度の視線の方がむしろ包丁より怖かったなどこの家ではよくある話。


(2012.0628)