昔から想定外のことに遭遇すると固まってしまう性質だった。想定外というのはたとえば、学校で物を隠されるとか、理由もわからないのに殴られるとか、それからぼーっと歩いていた道端で偶然ふたの外れたドブに片足を突っ込み財布の中身をすべてぶちまけてしまうとかそういうことだ。

アスファルトに膝つき片足を下水に突っ込み、固まった僕の横をランドセルしょった小学生たちがかけてゆく。うわーダッセエー! 千円札もらいー! いじめられっ子歴は長く、指差されて笑われるのには慣れている。お金だってそもそもジャンプを買いに行っただけなのだからたいした金額は持っていない。住宅街は車の通りも少ないから、危険もない。そう、それらはさしたる問題ではない。問題は下水に埋まった右脚の膝から下をどう処理するかだ。アスファルトに手をつけば立ち上がるのは簡単だがなるべくなら外の物にさわりたくない。かといって左足一本を支えに立つにはいささか溝が深い。なんとかなるだろうか、すこしずつ道路側に左の膝をぐ、ぐ、持って行こうと努力していると不意に視界が陰る。

顔を上げれば男が立っていた。ゆるやかにウェーブがかった茶髪の軽そうな男、多少、年上だろうか。反射的に身構えるとそっと、右手を差し出された。え、と思う間もなく白いコートは僕に伸び、拒む間もなく手を取り握る。力強い掌はそうして僕を救い上げた。立ち上がると男は僕より背が低く、隠れていた冬の陽射しが妙に眩しくて、太陽が眩しいのか、この人が眩しいのか、よく、わからなかった。

男は呆然とする僕を放ってしゃがみ、地面に落ちた十数の小銭とビニール袋を拾ってハイと差し出した。ろくに思考がはたらかずに受け取ろうとすると、コンビニのレジ袋をのぞいた男があ、と声を上げる。

「これ、今週の?」

一瞬なにを言われたかわからなかったが、あ、とうなずくと男はニコと笑って僕を見上げる。

「いやちょうど読みたい漫画あったんだよね、ちょっと借りていい?」

ちょっとって、どれくらいですか。困惑した僕の言いたいことがわかったのか、あ、家に帰るまででいいからさ、あいかわらずにこやかな男はそう言って首をかしげる。他人に触らせたくはなかったけれど、ね? と頼まれて断れるほど僕に対人スキルはなかった。それより家までついてくるのかということで頭がいっぱいで、なにを言えばいいのか、本当に、わからなかったのだ。めったに家なんて出ないのに、ネットで頼んでいるジャンプが遅れているからといって買いに出るんじゃなかった、僕はすこし後悔しながら、家までの短い道を名前も知らない男と並んであるきだした。

歩きながら読んだりして転ばないのかな、くすくすと上下する肩をちらちら見ながら思う。僕なんて漫画を読んでいなくてもドブに落ちたのに。じっとりと重いジーンズが風に吹かれるたび薄ら寒くて気持ちわるかった。(帰ったら一刻もはやく服を脱いで、それから手も、手、…手)

左の手のひらを、妙に意識してしまう。他人に触れたのはきっと驚くほど久しぶりだ。高校に通っていた頃は殴られることがよくあったがその記憶も今は遠い。たまに行くコンビニの店員などどうやら僕の潔癖症に気づいているようでなるべく目もあわせず小銭を手に落としてくるようになった。父とはしばらく顔を合わせていないし、母親もほとんど部屋を出ようとしない僕をもう諦めている。そんな僕が数年ぶりに、向こうからとはいえ人間に触ってしまった。驚いたのは、案外、嫌でもないということだ。潔癖の気の強い僕がこんな風に思うことがあるのか。妙なかんじだった。グーパーグーパー、繰り返していると横の男がアハハ、機嫌よさそうに大口開けて笑う。見れば視線は僕の好きな漫画で止まっていた。(…あ、)そういえばその漫画のつづきが気になってわざわざコンビニまで行ったんだっけ、思い出したとき男が不意に顔を上げる。

「あ、これ、おもしろいよね。今連載してる中で一番好きなんだ」
「え、」
僕もです、思わず言って、はっと口をおさえる。喋り方まで根暗でキモイ、散々高校でぶつけられた言葉が耳をよぎる。しまった、と思ったのに男は目をぱちくりとさせて、それから僕に微笑んだ。

「なんだ、喋れるんだ」

もしかして口利けないのかと思って、わるいことしちゃったかなって。安堵した表情で男は言い、ビニール袋にジャンプを突っ込んだ。家まではあとすこしあったが、もういいのだろうかと視線で問うと、気づいた男はああ、とうなずく。

「さっきのだけ、続きが気になってたからさ。あとはまあいいや」

ハイありがと。返されたのを受け取って顔を上げると、数十メートル先、家の前母親が立っているのに気がついた。目が合うなりはっとしてこちらにやってくる。息を切らした母親は僕らのところまでくると隣の男に詰め寄った。どういう関係ですかこの服の汚れはどういうことですか質問攻めにするのでなんだか腹が立って間に割って入ると、男が困ったように頭をかきながらいきさつを話した。気の落ち着いたらしい母親はごめんなさい失礼なことを、すぐに語調をあらためて、お礼に家に上がっていくよう男に言った。え、と思ったのにあ、いいんですか? にこにこと笑う男は結局、僕の家に上がることになってしまった。居間に通されいやあ恐縮です、お茶をすするのを横目に風呂に入る。十一月の外気は思ったより冷たくて、足が凍えてしまいそうだった。

シャワーを浴びて、左手は、けっきょくお湯で軽く洗うだけにして風呂を出ると玄関、男が母親に見送られて帰るところだった。アンタもお礼いいなさい、言われるままにぺこり頭を下げる。

「それじゃ、また」

言い残し男は去った。また来るのか、と思った。同時に名前を聞き忘れたのに気がついた。僕は左手を洗い流してしまったことをすこし後悔した。名前を聞き忘れても、指先の感触がまだ残っていたら、あの人に会ったのが現実だと思えたかもしれないのに。そうして何をバカなと自分責めた。さっきは外に出なきゃよかったなんて後悔していたはずなのに、なんで――もう一度会ってみたいなどと思うのだろう。考えあぐねているとくしゃみが出た。そういえば髪が濡れたままだった。風邪を引く、乾かさないととようやく廊下をあとにした。きっと好きな漫画が同じだったから、だからもう一度話してみたいんだろう、そう思うことにした。


(…でも、またって、いつだろう)


(2012.0628)