そのみかんは無造作に両腕に抱かれていて、たぶん、うちの角を曲がったところにある家から突き出たのを平気でとってきたんだろうなと思った。この前通ったとき見上げたのはまだ青く硬そうだったけれど、みかん好き? ニコニコと掲げられたそれはつやつやと光沢があり、ほんのりと酸っぱい匂いがしてついうなずいてしまった。うなずけばこの男を自分の部屋に入れることになるのだと、首振ったあとで気が付いた。

あれから数日後、突然やってきた名前も知らない男はおじゃまします! 勝手に僕の部屋に上がりこんでくる。潔癖症の僕はいつもなら慌ててファブリーズを靴下に吹きかけたはずなのに、なぜか左手に持っていたそれを振ることができなかった。男が部屋の真ん中にドンと座り、背の低い机にみかんをぼろぼろ、こぼすような勢いであるだけ置いた。二人でも食べきれるかどうかわからない量だなと思って見ていると男は頭を掻きながら言う。

「いやー近所のお家から頂いてきたんだけど、ちょっともいでたらおじいさんに怒られちゃってね! 急いで逃げて来たからこれしかもらって来られなくてさあー」

ニコニコニコ、悪びれずに言うがこの人は「もらっている」でなく「盗っている」自覚がないんだろうか。不思議な気持ちで見つめているとさあさあ食べて食べて、窃盗犯のくせにそれは嬉しそうに僕に手を広げるのでしかたなく腰を下ろした。

そういえばみかんなんて口にするのは久々に思う。母親が廊下に置く食事はほとんどが最低限のもの、僕がいつ食べてもいいように冷めておいしくないものは除かれる。自然と種類も限られてくる。野菜は出されるが果物は好みがわからないらしくしばらく食べていなかった。

ひとくち、噛み締めると柑橘の酸っぱい香りが口中に広がって、それから舌に酸味が追いついて歯を軽く食いしばる。売り物ではないから当然そんなに甘くない。けれどすっきりとしておいしかった。最初はひとつずつ、白い筋を丹念に取って食べていたがとなりの男がもしゃもしゃと剥いては何も気にせず食べるので、真似してみたら案外それもいけた。そうして調子に乗って、狭い机を占拠していたみかんの大半を気づけば胃に収めてしまっている。満腹を感じるほどなにか食べたのはいつぶりだろう。食事は気が向いたときに摂ったが食べること自体にそれほど意欲もなく、途中で残してしまうことも多かった。腹が痛い、と思うほど食べたのは本当にいつ以来なのかわからない。腹が痛い? はっと振り返る。

「あ、あ…こ、これ、」
「うん?」
「これ…その……消毒…」
「ああ、してないんじゃないかな。そのへんのお家のやつだしね。あ、ちがう山下さんだったかな、せっかく頂いたのに名前も知らないなんて失礼だよね、帰るときに表札を見ておくよ」

固まった。消毒もしていないものを大量に食べてしまった。腹が痛いのはもしかしてそのせいかもしれない。どうしよう。混乱して思わず絨毯の上に置いたファブリーズに手が伸びた。と、同時に彼が僕をふいと振り向く。そういえばさ、口を開くので反射的に耳をすませた。

「静河の下、流くんっていうんだね」
「!」
「この前は聞けなかったけど、お母さん下で会った時そう呼んでたからさ」

カッコいい名前じゃん、ニコニコ言われカアと、顔に血が上るのがわかった。外の世界では僕の名前なんてただからかうための理由のひとつに過ぎなくて、そんな風に言われたのは初めてで、それに言ったのがこの人だったから、だからどうしていいかわからなくなって、間をつなぐ術が見つからなくて、それでまぬけな僕はけっきょく最後のみかんに手を伸ばすしかなくなってしまった。気まずくひとつ取ってちらりと目を遣れば、あ、おいしい? 気に入った? 男が笑顔を見せるのでほっとした。なんだか頭がいっぱいで、お腹は、もう痛いのか痛くないのかよくわからなくなっていた。

帰り際上着を羽織りながら男はそうそうと僕を見た。

「名前、僕だけ知ってるのもなんだかあれだよね、ぼく、」

ぶんぶんぶん、言い終える前に首を横に振った。僕よりもすこし背の低い男がうん? と首をかしげる。聞かない方がいいと思った。自分の名前を呼ばれただけでうろたえているのだから、名前なんて聞いたら今度こそ、血流が頭で止まってしまうように思えたし、それに、次また来るのを期待してしまう気がしたから。だから言わないで欲しかった。僕が見つめるとそう、とうなずいて男が背を向ける。その指がドアノブにかかった。そのとき、男はゆっくりと僕をふりむいてそして、にこり、笑って言うのだ。

「山久っていうんだ。君が僕のこと知りたくなくたって、僕は僕のこと、知って欲しいから」

それじゃ、残酷な『山久さん』はパタンというドアの音を残して颯爽と去ってゆく。残された部屋には頭で血が止まるとなんて病気になるんだっけと悩む僕と、甘酸っぱい、みかんの香りだけがあった。



知りたくないわけじゃないんです、言い忘れたと気づくのはいつだって遅い。


(2012.0628)