小さい頃兄はいじめっ子で、でも私はそんな兄が嫌いではなかった。兄がいじめっ子になったのは、身体の小さかった私を他のいじめっ子から守るためだったからだ。その頃兄は私にとって一番身近な憧れで、テレビで見るヒーローなどよりずうっと輝いて見えた。

見えた、はずだった。

「〜〜っ! トイレに入るときは、ドアを閉めてくださいって言ったじゃないですか!」
「ああ? なんだよお前こそ見といて謝りもしねーじゃねーかアイコだアイコ」
「は、話になりません!」

バタン! 勢いよくドアを閉めて走り去る。帰宅するなり最悪だ、忘れてしまいたい。なぜ兄にはトイレに入ったらドアを閉める習慣が根付かなかったのだろう、同じ家で育ったのに甚だ疑問だ。

今し方の記憶を振り払うようにして二階の自室に駆け込むと、はあと息を吐いた。照明をつけて鞄を置き、制服の上着を脱いで壁にかける。束の間逡巡したあと、濃緑色の上着のポケットに手を伸ばした。窓際の勉強机に掛けて無骨なセロテープでとじられた封を開けると、封筒と同じクリーム色の便箋にはびっしりと角張った字が並んでいる。お世辞にも綺麗な字とは言えなかった。けれどなるだけ丁寧に書かれたことだけは伝わってくる羅列だった。すこしばかり緊張しながら目を通せば朝夕の電車で見かける私への思いが綴られており、私は相手の顔も知らないのに一行ゆくごと赤面した。同時にこれほど好意寄せてくれる人がいたことに微塵も気づかずいた自分が申し訳なくも感じた。

二枚の便箋を読み終えて顔を上げる。火照った頬の左右をかわるがわる右手の甲で冷ましながら、ふわーっとした頭でこれからどうしようか考えた。手紙を渡してくれたのは隣のクラスの女の子だ。送り主は私の着る女子中学校の制服を見て同校に知り合いのいるのを思い出し、彼女に託したらしい。合同授業などで数度顔を合わせた程度であった彼女は申し訳なさそうに、嫌ならハッキリ言って大丈夫だからねとことわって私に手紙を渡した。数時間前のことだ。受け取った便箋の末尾には定型的な懇願があったから是非を返さないといけない。そして手紙できたからには手紙で返すのが筋なのだろう。いずれにせよと二段目の引き出しからレターセットを取り出した。同時、荒々しくドアが開く。私は慌ててもらった恋文を両手で隠した。両目ににらむよう命令しながら振り返る。

「ドアを開けるときはノックしてくださいといつも、「ああ?メシだって何度も呼んだじゃねーか、さっさと来いよ」

人の文句など掻き消して自分の用件だけ伝えた兄は一方的に満足して階段を下りていった。今度はドアを開け放したままである。これも、いつもやめてと言っているのに直されない。曰わく、どうせすぐ一階に降りてくるのだからいいだろという。実際そうなのだけれどそれはそれ、これはこれだ。憤慨しながら手紙類を一式引き出しにしまう。食事中憤懣を目線でせいいっぱい送ったがガツガツとご飯をかきこむ兄に届いたようすはなかった。兄の部屋に散乱しているバイク雑誌を今度資源ゴミの日に出しておこうと決めた。わざわざ兄の部屋まで掃除してやる健気な妹を兄も笑顔で讃えてくれるにちがいない。ごちそうさまでした。

食事を終えるとたいてい私が最初に風呂に入る。洗い物を終えた母が次、そのあと兄、平丸さんとつづき、帰宅の遅い父が水に近い湯に浸かるのが常であったが、今日はめずらしく父の帰りが早かったので母は食卓でせっせと残り物を出していた。お兄ちゃん呼んでおいで、横目に言われ、二階に兄を呼びに行った。部屋をノックするまでもなく廊下ですれちがう。入浴の順番を告げると兄はひとつうなずいて階段を降りて行った。私はその背になぜか違和感を覚えたが、くしゅん、近頃冷えだした剥き出しの廊下にくしゃみしてそそくさと自室にもどった。(さて、手紙の返事はなんて書こうかしら)


翌朝はめずらしく遅くまで起きていたので多少寝坊してしまった。スカートの丈を気にしながら居間に降りると母がおはようをいい、玄関から走ってきた平丸さんは私を見ると尻尾がわりに新聞をブンブン振る。おはよう、返してから、朝食の風景に私はいささかの異変を見つけた。

「あの、福田さんは?」

いつもなら今頃起き出してだらだらと牛乳でも飲んでいる時間のはずだ、兄の一限は私よりずっと遅いのだから。フライパンから目だけこっちを振り向いた母は出かけたよという。今日は用事があるとかいって。朝は不機嫌な兄がこんな時間に! よっぽど大事な用でもあったんだろうな、うなずいて食卓に掛け、すこしばかり温くなった椀の蓋を開けた。

兄の「用事」を知ったのはその次の日のことだ。前日手紙の返事をわたそうと思ったら件の彼女は欠席していたので今日渡しに行ったところ兄の所業が知れた。兄はどうやら私宛の手紙を勝手に読んだらしく、昨日の朝相手の中学まで出向いて本人に直接ことわりを入れたというのだ。お世辞にも上品とは言いがたい高校生の兄がわざわざやってきたとあり、彼は相当心臓の縮む思いをしたようだと、電話越しにようすを聞いたという少女は言った。私は渡そうと思っていた手紙はポケットから出さず、彼によく言っておくよう彼女に頼んだ。間に入った少女は困った顔で、しかしはっきりとうなずいていた。

急ぎ足で帰路を行きながら、数日前感じた違和感の正体に私はようやく気づいていた。風呂を出て階段をのぼったとき兄は、私の部屋から出てきたところだったのだ。兄の部屋は階段を登ってすぐのドアなのだから、奥の廊下から出てくるのはあまりにもおかしい。スカートがバサバサと揺れる。帰ったらお母さんにお小言をもらうかもしれないと思った。べつにいいやと、思った。

鞄は玄関に置いて身軽になり、声を張って居間の母にただいまをいい返事もきかず階段をバタバタと登り、二階に上がって正面、兄の部屋のドアを「ノックもせず」開けてやった。乱雑な部屋では床に兄の後輩の安岡さんが座り、兄はベッドで雑誌を読んでいるところだった。常ならぬ勢いで開けられたドアにしかしのんびりと顔を上げる。お? なんだよおかえり、悪びれもせずいう兄にズンズンと近づきお腹に精一杯力をこめた。

「福田さん、私宛のら、ラブレター、勝手にことわったでしょう! 相手の人怖がっていたそうじゃないですか! 信じられない! どうしてそんな、勝手なこと、するんですか!」
「ああ? …べつに、いいだろ、兄貴なんだし」
「これは私の問題です! 家族だからってそんなことしていいわけないでしょう!」
「うるせえなー安岡もいんだろ、後にしろって」

キッと振り向くと苦笑いした安岡さんが頭をかく。悪ぶった見た目に反して人のいい彼は引き合いに出されて困っているようすだ。ずるい、安岡さんを交渉材料にもってくるなんて卑怯だ。こうなったらあとで覚悟していてくださいね、怒りはなんとか抑え内心で啖呵切って背を向ける。ドアを閉める瞬間兄たちの会話が聞こえた。

「福田さんホントに断ったんすか? さすがにひどくないすかね」
「はァ? バカお前うちの妹をどこの馬の骨とも知れねえ野郎にくれてやれるか」

パタン。扉の閉じる音と同時だったけれどそれは低くとおる、鮮明な声だった。(…ずるい、)閉じたばかりのドアに背からもたれる。一気に体の力が抜けてしまった。聞こえず居れば、怒っていられたのに。どうかしたのと二階に様子を見に来た母に首を振る。女の子なんだからあんまりガサツはいけないと言いながら母は鞄を手渡した。ごめんなさい、気をつけます、あやまって自室にもどる。

ポケットから取り出した私の手紙は、捨てるかどうか、すこし迷って、結局もらった手紙と同じ引き出しにしまった。おそらくもう読み返すことはないとおもう。本当は、私もことわるつもりだった。相手がどうとか、そういう理由ではない。私に「嫌ならハッキリ言って」と添えた彼女の語気は妙につよく、目元はやけに赤く染まっていたから、きっと、そういうことだと思ったのだ。

そうして制服を脱ぎ部屋着に着替えるころには、私の頭はもう明日の数学の宿題のことに切り替えられていた。


その後友人伝いにあのときの彼女と私に手紙を送った彼が交際をはじめたことを聞いた。そう、とひとつうなずいて、たまには兄の好きなお菓子でも買ってみようかと放課後、あまり寄らない駅前のコンビニに私は足を向けた。ポテトチップスの棚の横では、テレビアニメのヒーローがお菓子の箱に刷られてポーズをとっていた。


私の家には、今もヒーローがいる。(ただしヒーローはすこし口が悪くて手が早い)

(2012.0628)