つんとつく有害物質の匂い、部屋に充満して頭がくらくらする。女の部屋で何度か嗅いだそれは媚態を強調するようで、鼻先を押さえていたのにコジィくんの黒い爪は安っぽいワインレッドやチェリーピンクとちがって、どこか儀式的で、それから性的な匂いがして、うすく桜色にひかる指先が漆黒に染まっていくのを間近でながめるのは、なんだか、引き込まれた。

大きなベッドに肘ついてすぐそばで見つめていると、ちらり、手元から目線をずらしたコジィくんが僕を見下ろす。

「…君、帰らないのか? 今週の原稿終わってないって、」
「いやいやまさか、いっぱしの社会人たるもの、仕事は終えてから来たに決まっているじゃないかコジィくん」
「けどさっき君の担当とかいう男が、」
「オートロックは素晴らしい、人類の誇る文化だと思うよ、吉田氏は僕の居場所を知りながら三十二階までは来られないのだからねいい気分だ」

コジィくんはめんどうくさそうな顔、それからどうでもよさげな表情に変わって、ふたたび爪塗りに夢中になったようだった。ひろくやわらかなベッドで嗅ぐシンナーはひどく、いい香りがした。


いくらか、眠っていたようだった。起きるとマニキュアの匂いはすこしだけ、やわらいでいるような気がする。それとも鼻が麻痺したのか、そんなことを思いながら身を起こすと寝ているあいだに冷えたらしい、肩がキシキシいい、背筋が震えた。

コジィくんは先ほどとはあまり変わらない姿勢で、すぐそばに座っていた。ベッドに放られたマニキュアの入れ物はきっちりとその蓋を閉じ、高そうなブランド名を間接照明にかがやかせている。乾いた喉をおさえながら、コジィくんを見上げた。

「布団くらいかけてくれればいいのに、コジィくん」
「…ああ、起きたのか。なに言ってるんだい、そんなことして僕の爪が汚れたらどうしてくれる、せっかく綺麗に整えたところなんだ」

そう言ってキラキラと見せびらかす両手、白い肌と黒い爪のコントラストが眩しくて、僕はすこし、目を細めた。そういえば、マニキュアを塗るときだけは外される手袋、剥き出しの掌は骨の形、浮いた血管が確りと見えて、いつになく男っぽくてむらむらする。このまま襲ってしまおうか、起き上がった欲を堰き止めたのはぐうと鳴いた、みずからの腹だった。そういえば、お腹が空いた。コジィくんのマンションに逃げ込んだのは昼過ぎ、ガラス張りの壁の向こうはすでにうつくしい夜景、無理もない。

「コジィくん夕飯はハンバーグがいい、おろしののったやつ」
「しるか、っていうかいいかげん、帰ったらどうなんだい君、」

つれないことを言うのは俗に言う、ツンデレさんだからなのだと知っている。かわいいコジィくん。三十過ぎた男にはとても見えない。吉田氏とふたつしかちがわないのに、この差はなんなのだろう。(ああ、バカかそうじゃないかのちがいか。――納得)帰れとうるさいコジィくんに僕は追い討ちをかける。

「ひどいなあ僕はすこしでも長くコジィくんのそばにいたいからご飯が食べたいと言っているのに」
「っ…!」

効き目は抜群だ。ナルシストで他人のことなんてちっとも気にかけていないがコジィくんはナルシストゆえに、他人から尊ばれ愛される自分、でいないと気が済まないのだ。そしてそのナルシズムにつけこむ悪い男が、僕である。さあ、悪い男がその自己愛にとどめを刺してあげよう。

「僕は、コジィくんと一緒にご飯が食べたいだけなんだ」
「……ぐ…本当、かい?」
「あたりまえじゃないか、僕がコジィくんに嘘をつくとでも? 美人と食事がしたいのは男の性だよ、コジィくん」
「っ…し、しかたないな、そんなに言うなら、食べてあげないこともない、こっ、光栄に思いたまえ!」
「さすがコジィくんだ、さあ、出かけようか(君持ちで高級飲食店に!)」
「…メイクするから、ちょっと待ちたまえ」

観念したコジィくんは立ち上がり壁際の鏡台の前に座って、華奢な装飾の化粧箱をカチリと開けた。手馴れた化粧、いつもの顔が出来上がっていくのはとても、はやい。ひょっとしたら出かけるのをすこしは楽しみにしているのかもしれないとその黒くせわしない指先をぼんやり眺め、僕はふにゃりと笑った。

鏡に映る白粉を纏う彼、僕のうつくしくかわいらしいピエロ。


(知ってるかい、ピエロは滑稽だからこそ、ピエロなんだよコジィくん)


(2009.1020)