締切でやって来た担当に原稿を渡して化粧を落としてベッドに飛び込んで、しばらく起きないと思ったのに二時間で目が覚めた。眠気はあまり、感じない。習慣的にごそごそ起き出して顔だけ洗って鏡面台の前に座り、化粧水をつけて、ひといきつく。

壁にかかったクラシカルな時計を見上げれば午後七時。(いつもの時間だ)そう思ってはっと、首を横に振る。ちがうそんな、七時だから起きたとかそういうことじゃない、断じて。背を丸め膝の頭をしばらくじっと見つめて、それからやはり、時計を見てしまう。


午後七時はあの迷惑な男が、きまって逃げ込んでくる時間だった。平丸一也とかいう面倒な同業者。時には息せき切らし、時には優雅を気取りやあなんて片手挙げて、オートロックの映像に姿あらわす男。最初のうちは週に一度ていどだったが最近は拒まない僕に味をしめたのか二、三日おきに、マンションにやってくるようになった。そうして前にあの男が来たのは、三日ほど前のことだった。

かといってべつに、待っているとかそういうわけではない。けっしてない。断じてない。親元を離れてひとりぐらしでたまに夜が寒いとか、そんなこともない。冬が近づいてきたからベッドで感じる人肌があたたかいだとかそんなこともない。朝起きてとなりに他人がいるのに満足などしていない。本当に。だって僕はナルシストなのだから他人は必要ない。百歩譲ってたとえばそれが、きれいな女性ならまだしも相手は三十近い男である。(たしかに、顔は、僕に到底及ばないとはいえ、それなりかもしれないが)

そうつまり、僕は、あの男を待っては、いないのだ。絶対に。わざわざ眠い目をこすってなんか、いない。

ちらちら時計を見てしまうのは、えーとそう、そうだ、八時からは僕の出演した映画が地上波で初めて放映されるからだ。なんとなし、鏡面台の上を片付けてしまうのは僕が完璧主義者のキレイ好きだからだし、あわただしく眉を描いたり目元をいじったりするのはいつでもじぶんのうつくしい顔を保っていたいからなのだ。来るともしれない迷惑な男を白粉はたいてそわそわ待つ女みたいな、そんな真似はしないのだ。…乳液とアイライナーと口紅だけは、べつとして。

しかし睡眠が足りていないせいで化粧ののりがわるい。前かがみに乗り出して鏡をのぞきこんでいるとベッドに放ってあった携帯が数度、振動した。アイライナーを置いて開けてみると、めずらしい名前が受信箱にある。(? メールはめったに、してこないのに)ひらいてみて眉根に皺が寄った。

『コジィくんごめんね今日は吉田氏につかまって行けない』

なんだ、来ないのか。淡く電光放つ携帯が消えてしばらくして、はっと気がつく。来ないのか、じゃない。せいせいした、のまちがいだ。わざわざ食事に行く必要もないし、冷蔵庫に山積みになったカロリーメイトは僕が認める唯一の親友だし、広い風呂にわざわざ狭く入る必要もないしべたべたと身体をさわられることもない! すばらしい夜じゃないか、なにを落胆する必要があるだろう。首を横に振って、ぼふり、広いベッドにふたたび横になる。睡魔が襲い来るのは、おどろくほど、はやかった。


そうしてつぎに気がついたときに僕に襲い掛かっていたのは睡魔ではなく、変態だった。首を這うねっとりした感触に目をさます。圧し掛かっていた重みはゆっくりと上体を起こし、僕を見下ろした。顎の先をさらりと長い黒髪が撫ぜ背がふるりとする。なにごともないように不法侵入者の暴漢は言った。

「あ、コジィくん起きた? 物騒だよ、家の鍵くらい閉めなきゃね」
「なっ…なっなっ、なに、して――!」
「なにって夜這いをかけに、」
「う、っうるさい! 下品な!」

きみが聞いたんじゃないか、不満げに言いながら脇腹を撫でる手に肌が粟立つ。いつのまにか纏っていたタンクトップは脱がされベルトは外されかけていた。あわてて掛け布団に逃げようとすれば肩をつかまれて無言ではばまれる。深夜、月明かりだけが照らす部屋でも、品なく伸びた鼻の下はよく見えた。

「だいたい、今日は来ないって、言った…」
「怪盗ルパンも驚く手法で抜け出してきたのさ、吉田氏の裏をかくなんて僕には容易いことだ」

その割にはシャツがぼろぼろなのは、おそらく、言わない方がいいのだろうと思った。僕が黙していると変態はいう。

「それよりコジィくんこれは、どういうことだい、」
「え?」

骨張った指が僕の目蓋をなぞる。ああ、落とさないまま寝てしまったと思っているとその指が僕の目蓋を圧迫する。ぎっとにらむとにらみ返される。

「僕は来ないといったのに、どうして化粧なんて? まさか他の男に会っていたんじゃないだろうね」
「…! そ、そんなこときみには関係ないだろう! 僕がいつ化粧をしようと僕の勝手だ、」
「いいや大いに関係あるね、僕はじぶんの浮気には寛大だが他人の浮気には厳しい男なんだよ」
「そういうのは自分勝手というんだ!」
「まあなんとでも言えばいいよ」

ぐたり、腹に体重をかけられうめく。体格のいい男に覆いかぶさられては身動きがとれない。耳元では浮気なんてゆるさないよ今日は覚悟してねコジィくん、勘違いした男がささやく。(だから、浮気だとかそういうのじゃないというのに! ていうか僕たち付き合っていないだろう!)文句はあふれるほどあったが唇をふさがれてとじこめられた。僕だって男だから、直接的に触れられてしまってはもう、最低の暴漢の首に手を回すしか、なかった。きっと今夜はいつもよりひどくされるだろう予感に、ちいさく喉が、鳴った。

(けれど嗚呼、せめて化粧を落としたかった!)


(2009.1026)