ストーカーに悩んでいる。

女性が相手なら男としてまだ救われた。しかし犯人は同性である。ちっとも嬉しくない。同性の僕をストーキングする変態の名は小杉といった。僕の担当編集者、もとい、「元」担当だ。一週間ほどまえ編集長との約束どおりジャンプと袂分かってからは小杉さんとも赤の他人になったはずだった。しかし向こうはそう思っていないらしい。作家である僕の方から「小杉さんのような無能な編集とやる気ないから」生意気な最後通牒を叩きつけたというのにもかかわらずである。

ストーカーは毎日やってくる。正々堂々玄関からやってくる。どれだけ嫌そうな顔をしたって気にせずやってくる。

玄関先にこれ見よがしゴキブリホイホイを置いてみたってやってくる。(たぶん視界にもいれてなかった)来客用のティーカップ半分ほど砂糖を入れてみたってやってくる。(「七峰くん甘いの好きなんだっけ?じゃ、今度なにかもってくるね!」 いやいらねーよ)小杉さん用の椅子をわざわざソファから木椅子、さらにはパイプイス、その次は背もたれすらない四脚にしてみたってやってくる。(あのソファ実は緊張してたんだよねへへ」俺の労力を返せ)

とにかくなにをしたって小杉はやってくるのであった。(ドMなんですか。三日目くらいにきいたらちがうといっていた。疑わしい)

そうしてドM疑惑のストーカーの来訪が一週間もつづけば僕も結局それに対する抵抗をだんだんあきらめるようになった。来るものは来るのだからしかたがない。無視して下階のインターホン前に放置しておくという手もあったがそうすればあの熱血漢はマンションの集合玄関で石像と化すにきまっている。家に上げないという選択肢はその時点できえた。ジーザス。

小杉さんは今日も与えられた四つ足イスに座っていつものように他愛のない話を披露している。話題は大学のことだった。大学という組織はよく知らない。高校ですら中途で辞めた。しかし小杉さんの語る大学生活はそんな僕でさえありきたりとわかるようなものだった。それなりのサークル、面白かった講義、飲み会の失敗エトセトラ、じぶんには関心の向かない話が今日も延々つづく。

僕のあいづちはいつもいいかげんだっただろう。それでも小杉さんは気をわるくしたようすなどちらりとも見せない。そういう忍耐力だけはすごいと思う。だからつい口が滑ってしまった。小杉さんがあんまり熱心に話すからつい、きいてしまったのだ。

それで?″

興味なんてもちろんなかったし、それまでの話だって右から左に受け流していた。それでも書類に目を落としたまま思わず聞いてしまった。小杉さんの話はとまる。室内は急にしずかになって驚いた。落ち着かない、などと感じている自分がいるのだ。小杉の声などうざったくてどうでもよかったはずなのに。

呆気にとられている僕と反対に小杉さんはパアと顔かがやかせいつになくうれしそうに笑ってみせる。

「よかった、…七峰くんいつも退屈そうだったから、てっきり聞いてないのかと…ちがったんだね、嬉しいよ七峰くん、ありがとう」

ごめんね疑ったりして、申し訳なさそうに付け足す小杉さんの姿にいささか落ち着きを取り戻し、そうして僕は、ああ、なんてたやすい男なのだろうと心のどこかでおもう。「それで?」たった三文字の言葉でじぶんのすべてを信じる小杉はたやすい男だった。他人など信用しない僕にとってすれば最も軽蔑すべき人種であった。

いつもなら、そんなわけないでしょういつだって聞き流していましたよ、事実をわざわざ口にしてそのかすかな信頼を打ち砕いていただろう。しかし今日はそうしなかった。

ふたたびどうでもいい話をはじめた小杉さんに今度は聞き返したり決してしないように気をつけながらだまって書類の処理をつづける。部屋に満ちる見た目のわりに低い男の声はなぜだか、落ち着くような気がした。

二杯目のコーヒーを入れに行ったついでに新しい紅茶を入れてやったのは気まぐれで、小杉さんの好きな量だけ砂糖を入れてやったのもただの、気まぐれだ。

ストーカーの来訪はまだまだつづく。月曜日から金曜日まで毎日一、二時間不規則にやってきてはよく話題も尽きないなと感心するほどさまざまな話をしてそれに僕が投げやりなあいづちを打つのを見ると満足そうに帰っていく。会社の書類仕事が以前ほど忙しくなくなったので僕は前より「どうでもいい話」に耳を傾けるようになった。かわりの業務は小杉さんの話に思わず笑わない仕事である。これが案外むずかしかったのでむかついたが黙々と僕は働いている。まったく勤労者の鑑。

三週間が過ぎてその水曜日はめずらしく機嫌がよかった。小杉さんは「毎日はさすがにきびしいけど」と言って週に一度か二度、菓子をもって会社にやってくる。その日のコーヒーゼリーは前に一度口にして小杉さんのわりには趣味がいいなと思ったそれだった。褒めた覚えはないがけなした記憶もない。

どうぞと手渡されたそれにだまってプラスチックのスプーンを通せば小杉さんがわらった。眉をひそめるとあっさりあやまってくる。わるい気はしない。

つい聞いてしまった。明日何時にくるんですか。小杉さんは自分のカップに伸ばそうとしていたスプーンを取り落としそうになりあわあわとバランスのわるい姿勢をくりかえしてああ、と思っているうちにフロリングに頭から突っ込んだ。当然おやつはぐちゃぐちゃだ。絨毯に染みがついたかもしれない。

それを見た僕は絨毯がよごれたと怒るでもなく笑った。小杉さんのこけ方があんまりおもしろかった。汚れなどどうでもよかった。あざわらうほかに笑い方があることを久々に思い出した。

部屋の汚れを片付けゼリーの上にかかっていたミルクでべたべたの眼鏡を洗った小杉さんはさんざん笑われぶすっとした顔で「…十五時くらい」もごもごと言ってそそくさと帰った。僕はその背を見送りまだくつくつと笑いながら手を振った。

これじゃいつもの逆じゃないか。気づいたのはひとりになって静かな部屋になんとなく落ち着かず、てきとうな音楽をオーディオに命じたころのことだった。部屋にはCDが増えた。(ひとりなんて慣れているから、ただの、…そう、気分のもんだいだ)

明くる日はいつもより早く出社してその日の仕事をかたづけた。現在シンジツコーポレーションの運営はほぼ響さんに任せている状態だった。業務内容はジャンプ以外への出版社向けプロデュース、僕のあずかるところではない。

出社時間を一時間も前倒しして多少早めにキーボードを打てば昼にはすべておわってしまった。なんとなし手持ち無沙汰、眼下の東京を眺めてみたりCDを交換してみたり読み飽きた本をもう一度手に取ったりしてみて予告の十五時がくる。時計の針がすすむのがやけに緊張した。それを隠そうと仕事もないのに仕事机に座ってみせた。しかし小杉さんはこない。

それまで仕事のほかに人がくるのを待ったことがなかった。そもそも待つような相手がいない。商談の場合はふつう何らかの連絡がはいるが携帯が鳴るようすはいっこうにない。十分経った。無意識に電話を手にとって慌てて机においた。自分からメールなどしたらまるで待っているみたいだ。実際待っているのだが、そんなことを素直にみとめるようであればそれは僕ではない。どこかの八峰くんか、六峰くんだろう。

十五分、二十分経つ。なにかがあったのだろうか。わからない。これまで小杉さんのくる時間はまちまちで、それも僕の忙しくないのを知って事前の連絡はいつもなかったからよけいに詳細不明だ。

だんだんと腹が立ってくる。人待ちというのがこれほどいらいらするものなら今後一切しなくていいとおもう。ほんのひとかけほど信じかけたじぶんを打ち砕くのが約束ならこれから一生せずにいようとおもう。

三時間が経った。立ち上がる。もう我慢ができない。仕事は終わっている。家に帰ろう。そう思って鞄を手に取った。エレベータが鳴った。とっさに振り返れば響さんが立っている。…落胆。

気分でも? かけられる声でようやく我にかえり対応した。(落胆? そんなものは気のせいだ。ばかばかしい)数分で業務の打ち合わせは終わり仕事がひとつ増えた。しかたがないのでさっさとやって帰ろうとふたたび椅子にかけるともう一度エレベータがひらいた。まだなにか、言いかけて口を閉ざす。

小杉さんが立っていた。眉毛をおもいきりひん曲げてやる前に男はガバリ思い切り頭を下げる。肩にかけていたショルダーが勢いよくひっくりかえったせいでカバンの中身が悲惨に飛散したが気にも留めていない。ごめん、すまん、申し訳ない、おそらく思いつくかぎりの謝罪を滝のように小杉さんは流す。

誠意の滝はたしかにザアザア流れたが僕の心を打つことはもはやない。他人はしょせん他人でしかないのだ。みな自分本位に生きているのだから僕とのかんたんな口約束などより自分の都合の方がよっぽど大事だったのだろう。立ち上がった。仕事など明日に回せ、俺は帰る。そう決めて横を通り過ぎようとしたがふと、間近で小杉さんの顔を見て足をとめる。

「…小杉さん?」
「え、」
「もしかして、……寝てないんですか」

疑問というよりそれは確信だった。ドM疑惑に追加された不眠疑惑。小杉さんは怖じたように半歩あとずさったままものを言わない。肯定に他ならなかった。ああ、とおもわずため息がもれる。両眼のしたはいつもの距離からではわからなかったがすぐそばで見ればはっきりと黒く染まっていた。いうべきことはすぐにわかった。

「小杉さん仕事、忙しいんでしょ」
「! そ、そりゃ、まだまだ新人のうちなんだから、いそがしいにきまってるじゃないか、なんだよ、急に…僕のことなんてどうでもいいじゃないか」
「どうでもよくないですよ、僕のせいにされたりしたらたまったもんじゃない」
「だ、だれも七峰くんのせいだなんて、」
「毎日時間ぬって僕のところに一時間。これ以上原因になるようなことが他にあるんですか? …シャツ昨日のとおなじだし」

言い返そうにも胸元には黒い染みがある。これ以上クロになりようのない証拠だった。ため息は深い。帰宅はあきらめてカバンをおろして言った。

「小杉さんもういいです、あなたのしぶとさはさすがに認めますよ。やる気のない作家のところにこれだけ通うのは実際アンタよくやったよ、――でももういいでしょう、僕は考えを変えるつもりはない。アンタとマンガを描く気はないんだ。もういいよ、もう帰ってくれ」

頼むから、とは付け足さなかったがおそらく小杉さんに伝わっていたとおもう。

それははじめての懇願だった。

宣言した時刻に遅れたのは、このところ僕のところにきていた時間の埋め合わせに追われていたからなのだとそれくらいのことは、もうわかっていた。昨日床に突撃した理由が寝不足からだということも、いまなら察しがついていた。

小杉さんの誠意は不器用すぎて、僕につたわるにはすこしばかり時間がかかる。怒りはとうに消えていた。この数週間、「僕」本位に生きすぎた元担当が少々ばからしくも思えていた。けれどそれは決して軽蔑をふくんだばかばかしさではない。祈るような気持ちで二回目の最後通牒をつたえた。

しかし、ストーカーは、粘着質でしつっこいからこその、ストーカーなのであった。

約束を守れなかった紅茶の砂糖小さじ一杯派の熱血漢なドM疑惑ストーカーはあきらめわるくニカとわらうとこういった。

「編集として通ってたんじゃないよ、おれはただ七峰くんの友だちになりたくてここに来ていたんだ。編集としては力不足だから、七峰くんには大切なことを教えてあげられなかったけど…でも、それでもさ、友だちにはなれるかもしれないじゃないか」
「………は?」

それがせめて僕にできる責任のとりかただとおもうんだよね! グーをつくり力説するあほうの頭をグーで殴ってやりたかった。一回殴られたことがあるんだから仕返しに殴ってやってもいいんじゃないかとうっすら思ったがそうするとこのジャンプ信者は「殴り合いから生まれる友情! 実にジャンプ的最高じゃないか!!」とでも感涙し殴り返してきそうな空気を感じたのですんでで止めた。気がついたときにはうっすらと小杉さんの思考がよめている自分が泣きそうなほどかなしくてたまらない。呆然と立ち尽くす僕に小杉さんが掌をさしだず。あっけにとられていた僕はおもわず反射でそれを握ってしまう。

そうして我にかえり目の前の理解しかねる生き物にありったけの文句をなげつけるのは残念ながら、「じつはほんとに仕事が大変だから…今度からは土日にきてもいいかな」照れたように小杉がきいたことばにうっかりとうなずいてしまった、そのあとのことだった。

ストーカーは悪質な居直り強盗にしんかする。



(2011.1028 / 1101 加筆修正)