キスした。ほんの出来心だった。力のかぎり殴られた。痛かった。目の奥がチカチカして視界がしばらくぼやけてみえた。ようやく鮮明になった小杉さんの部屋で彼は真っ赤な顔をしていた。真っ黒な睫がぷるぷると震えている。ふと左の肘に痛みを覚えた。よく見れば床に転んだ拍子テーブルにしたたかぶつけたらしい。僕を殴ったまま不自然な中腰になっていた小杉さんが力抜けてぺたんと床に座る。あやまらないからな、といった。この人のこうゆうところは好きかもしれないとどこか人事のように僕は思った。

小杉さんの家にきたのはこの日が初めてだった。(もちろんそのときはこんなことになるなんて思っていなかった)「よかったら遊びにくる? …なんにもないとこだけど」と顔を九十度ぼくから傾けて決して返事するときの表情をみないように小杉さんがいうのでわざわざ断ってやった。そしてそのあとにウソ、いってやらなくもない、付け足せばドカと蹴られた。小杉さんのすぐ手足が出るところは(実際けっこう痛いのだけど)なんだか年の離れた弟扱いされているようできらいではない。(というか本人も男三人兄弟の一番したで、もうひとりしたが欲しかったと言っていたからたぶん同じような気持ちなんだろう、と思う)

話はもどるがたしかに小杉さんの家にはなにもなかった。山のようなマンガとゲームを除いては、の話である。いかにも性能重視で通販したであろう壁一面の収納は圧巻で、そして狭苦しい六畳一間を完璧に圧迫しているといえた。のこりのスペースにはゲーム機各種とパソコンと、かろうじて机や布団がある。パソコンの横には、大事にしているのかこの前買った子犬のぬいぐるみが飾られていた。かざりものはそれくらいだった。洗濯は男の一人暮らしらしく窓辺につるされていた。三つ折りにされた布団の上にちょこんと座り、奥の台所でお茶を入れる小杉さんを待ちながらつくづく思う。

(あの人…よくこれで生きてんな…)

小さいころから恵まれた家庭で育った自分にはとうてい想像つかない光景、というよりもはや惨劇である。(今日は初回だからこのまま居るが、つぎ来たら遠慮なく直してやろうと思う)おそらく人がくるからという理由で乱雑に部屋の隅に、畳まれもせず追いやられた下着や端の折れた雑誌など信じられない。見ている呼吸をしているだけで頭が痛くなってきた。そして家主が日本茶を持ってきた。猫舌温までそれをまちながら部屋の掃除をくどくど叱ればやあお母さんみたいだなあと笑っていた。こんなに若い美形をつかまえて失礼なやつだが小杉さんが妙に機嫌よさそうなのでまあいいかと思った。たいがい僕もこの男に毒されている。

そうして一息つくと、「なにもない」のを気にしたのか小杉さんがいいものを買って準備しておいたという。期待せず押入から取り出すのをみていればなんとジェンガが出てきたので思わずいろんな意味で笑ってしまった。(ぶっは! ねーよwww)しかしそれが気に喰わなかったのか負けず嫌いかじゃあこれならどうだ、今度こそ本命らしいなにかをくり出してくる。

「ジャジャーン!二メートル十六コマツイスター!!」
「……それこの狭さでできなくね?てか引く人要るから二人じゃどっちみちできなくね?」
「………あっ」

腹筋がしぬかとおもった。むしろしんでなんとかよみがえったと思う。ストーカーも殺人犯まで堕ちたかと考えるとなかなか感慨深かった。恐るべし小杉。

そうして顔を赤くした恐るべし小杉はそのままもういい公園いってそのへんの人捕まえてやるし!!とか言い出しそうだったので僕は慌てていった。いやージェンガとか懐かしいなあ楽しそうだなあさすが小杉さん。きもちカタコトだった気もしないが恐るべし小杉さんがツイスターは大人しく諦めたらしいのでほっとした。いそいそと細長い箱からガチャガチャ取り出している。

「おもちゃ屋行ったらワゴンに載ってたのが目についたんで懐かしくってつい買っちゃったんだよねー」

そりゃ、まあ、叩き売りだろうな。思ったがツイスターが未だ脇に控えているので口には出さず黙々と準備を手伝う。携帯ゲーム機が流行りだした昨今もう見向きもされなくなったジェンガはぼくらの世代がおそらくギリギリだったのだろうけれど、よくあるおもちゃのそれで遊んだことはしかし僕にはなかった。単純な理由だ。遊ぶ相手がいなかった。小六のときようやくそれらしきものはできたがその頃のぼくらはもうジェンガなどで満足する年頃ではなかった。それだけのことである。

小杉さんが最後のひとつを置くとどことなく緊張が漂った。なんとなし正座をするととなりの男も同じようにしていたのでおかしかった。お茶をどける。じゃんけんをする。先攻になる。積み木を引く。引かれる。引く。

初めこそそこには言いようのない緊張があったがだんだんだれてきた。僕も大人むこうも大人、そう簡単には倒さない。飽きてきた。僕もあぐら小杉さんもいつの間にかあぐら。見事なシンクロナイズ。とそんなことに気が向くくらい飽きている。ふと、僕の頭がわるいことを思いついた。

「小杉さん、次小杉さんですよね」
「え? ああ、うん、そうだけど」
「ですよね。…ああ大丈夫、つづけてください。いや、ただちょっと、それ落としたらキスしてもいいかなって−ーあ」

ガチャン。ガタガタガタ、コツ。ちょっとしたひやかしのつもりだったのに思いがけず効いてしまった。机の上には残骸、積み木をひとつだけ手にした小杉さんは顔を真っ赤にさせたり真っ青にさせたり忙しい。僕はといえば、まあ、冗談とはいえ言っちゃったんだからするか、と思って身を乗り出しそんな小杉さんにキスをすることにした。が、驚いて身じろぎされたせいでずいぶん不恰好なキスになってしまう。前歯が上唇に当たって痛かった。それでもちう、と押しつけてから身を離すと小杉さんはまだ赤くなる余地があったのかという彩度を顔面で見事に表現していた。そういえば初めてだったかな? と思っていれば初めてだったと細い声でいうのでさすがに謝った。ファーストキスが男とか、きついだろ。と思った瞬間殴られた。怒りは湧かなかった。ほんの出来心にしてはやりすぎたと自分でも思っていた。床に腰を下ろした小杉さんは震える声でいう。

「ふ、ふざけ、ふざけるなよ、七峰くん…冗談だって、やっていいことと、わるいことが…」

拳は膝の上で相変わらず握り締められ眼は完璧に瞳孔いっちゃってる。とにかくなんとかなだめよう、とりあえずすみませんと口に出したときだった。目を剥いてドンと机をたたき詰め寄った小杉が怒鳴る。

「ふざけるな!すみませんじゃ済まないだろ、きみはもっと自分を自分を大事にしろよ、初めてだったんだろ? だったらおれなんかとしちゃだめだ、ばかやろう、ばかやろう…」

殴られた頬が今さらジンジン熱い。僕はようやく理解した。さっきの「初めてだった」は「だった」ではなかった。

「初めてだった?」

僕への問いかけだったのだ。そして僕はそうではない。この勘違いやろうめとうとう泣き出しやがって、しかも自分のための怒りじゃない、僕なんかのために泣きやがって、ああ、もう、ちくしょう。(おれがどんなに罵ったって涙ひとつ流さなかったくせに!)

俺は泣いた。心底から泣いた。小杉がおどろき縋ってこようがどうだってよかった。小杉が泣き止んでよかった。ぼくのために泣くだれかがいてよかった。

涙はいつしか枯れた。ごめん、ごめんよごめん、気がつけば小杉さんがあやまる側になっていてなんだかおかしかった。

その日夕飯は僕がつくった。つくったといっても焦げたオムレツとしょっぱいスープくらいだったが小杉さんは満足そうにしていた。食器を片付け並んでテレビを見ながらそういえば聞いた。小杉さんは初めてだったんですか。小杉さんは真っ赤になったが今度は鉄拳は飛んでこず、…うん、と小さくうなずいていた。二十代も四捨五入すればもう三十の男をかわいいとは思わなかったが、なんだか、しにそうにはなった。(たぶん、満足感とか、しあわせとか、そうゆうので)

殺人未遂犯はテレビCMに対するひとりごとがやたら多かった。(え。僕にいってた? ハア、すみません)



(2011.1101)