ひと月経った。最後に会ってからひと月だ。こうやって書くとまるで相手に会えないのを寂しがっているみたいだがもちろんちがう。このまえ小杉さんの家に行ったとき時計を忘れた。たしか料理をするときに外してそのままだった。だから困っている。(忘れたのに気づいたのが家を出て五分程度の地点だったことには目を瞑るとして)どうだ立派な理由だろう。だから僕は時計のために小杉さんに会いたいんである。

しかし小杉さんはいそがしい。夏の赤マルに向けての準備でてんてこまいなのだとメールでいっていた。「隙をみつけて持っていくからちょっと待っていてくれないかごめん」わずか三行のメールは二週間前。以来一切の連絡はない。

僕はとうとう小杉さんをたずねることにした。集英社の前の有名チェーン、オープンカフェの一席に夕方から陣取り探偵気取りで待った。目深にキャスケットをかぶって飲み物はラズベリーホワイトモカのトールサイズを頼んで深緑色のパラソルのした、戦闘準備は万端だ。顔合わせないあいだに初夏まで移り変わってしまった夜のはじめはまだ夜というにはあかるく、赤と青と合間のみどりと合わさって、なんとも言い表せない色彩をえがいていた。通り過ぎる風は昼間の熱をおいやるように素肌に心地いい。

人を待つのは慣れた。僕は言い合わせた時間より早めに着くことが多く、小杉さんは定刻ギリギリにやってくるのがほとんどだったからだ。以前ほど嫌悪は感じない。人を待っている姿を駅前などで見かければなんて不利益な時間だろうと通り過ぎざま思っていたが、自分がいざ不利益をつきつけられるとそれは思っていたほどわるくないのだ。携帯を数度確認すると入っている慌てたメールにはたいてい誤字脱字があって笑わせてくれたものだったし、たとえば今日のようにあざやかな夕陽を見ることだってできた。わるくない。

そうして一時間ほど待ってみると、数度顔を見たことのある編集部の面々が通りのむこうで一人また一人カバンを抱えて帰路にむかうようすがみえた。しかし小杉さんの姿はその中にはない。偶然通りすがった体で挨拶をするイメージトレーニングを頭の中で何回もしすぎてゲシュタルト崩壊してきた。ひまつぶしに響先生に電話をかける。残業中ですので(イラッ)と切られた。もっと社長を敬えヒゲ野郎、と毒づきホワイトモカをひとくちすすった。そのとき待ち人来る。僕は椅子から立ち上がりかけ、しかし中腰のままそこで止まった。

小杉さんは先輩編集と並んであるいていた。名前は覚えていない。茶髪のアフロだ。荷物は持っていないようだから食事にでもいくところだろうか。仲よさそうだった。同じ班ではなかったような気がしたがちがうのだろうか。そういえば部署変更があったとかいっていた。そこまで中腰で考えはっと座りこむ。硬いプラスチックの椅子が冷たかった。なにを長々考え込んでいたのだろう。どうだっていいじゃないかそんなこと。背筋をつうと冷たい汗が伝う。半分ものこったピンクの液体を捨てて僕は帰った。

翌日風邪を引いた。夏とはいえ夜風に当たっていたのがよくなかったのかもしれない。終日部屋で寝ていた。ちょうどよく母親がいたので食事はなんとかなったのが救いだ。夕方になって目を覚ますと朝に比べ身体はだいぶ軽くなっていた。一階に下りる途中あがってくるところだったらしい母親とちょうどはちあわせる。

「あ、透くん。どう? 熱はもう大丈夫?」
「うん、ああ、ありがとう」
「よかった、お薬夜も飲みなさいね、あ、あと」

小杉さんて方から電話があったんだけど、お仕事終わったらお見舞いにいらっしゃるそうよ。通り過ぎようとして最後の一言に噴いた。なんだと。慌てて部屋に帰り携帯をチェックしようとすれば母親に止められその手には僕の携帯。僕はすべてを悟った。ずいぶんお友だち思いの子なのね、母の言葉は、まあ、つまるところとどめだった。そうして慌ててメールで何度も大丈夫です見舞いなら間に合ってます忙しいんでしょ本当に大丈夫、計十通ほど送ったがかえってきたのはわずか一通、「いまおわったこれから行くます」(…誤字ってんじゃねーよ! てか返信すくねーし!!)熱が上がってきてベッドでむせた。(元気になったら三回シメよう)

小一時間もすると小杉さんはやってきた。ドアを開けると僕が話しかけるより先、大丈夫? あせった顔で話しかけてくるので、そのころには熱も下がっていた僕はわざとしおらしく吐息などもらしてみせた。あからさまにあわあわとするのがおかしい。くつくつと肩で笑っていたらバレた。怒られる。病人を怒るなんて小杉さんは血も涙もないと思う。前から知ってたけど。

ソファを九十度回転させてどうやら居座るつもりらしい小杉さんはまずショルダーをあけて僕の忘れた時計を枕元にかえした。

「遅くなってごめんね、今日ようやく入稿おわったところで」

そういってあやまる小杉さんのシャツのすそはインクかなにかで黒く汚れていた。昨日見たそれと同じ柄だった。言い訳ひとつしないがきっと連日泊まりだったのだろう。つまらないことで腹を立てた昨日の自分がひどく幼く思えて腹が立った。

「七峰くん?」
「…べつに、なんでもないです」
「……わるかったよ、今度なにか、おわび、するし」
「いりません」
「ええ?」

困ったなあー、今にもいいそうなため息が頭の上できこえる。この人が僕の風邪の理由を知ったらなんというだろうか。夏風邪はバカが引くってホントだったんだね。真顔でいいそうだ。むかつく。小杉むかつく。聞いてもないけどむかつく。理不尽だろうがむかつく。名前を呼ぶと、思いの外ひくい声が出た。

「小杉さん」
「うん?」
「……アフロとストレート、どっちが好きですか」
「えっ? え、どういう意味? あ、えっと、…女性なら、ストレートの方が好きだけど…」

もしかしてそういう意味じゃなかった? おどおどと聞いてくるのには答えない。そうですか。ならいいですとだけ返せばはあ? と首を傾げていた。顔が熱い。熱がまたぶりかえしてきただろうか。ふらついた思考でぽつり言った。

「ねえ、小杉さん」
「今度はなんだい?」
「小杉さんのことは、ぼく、うざったいし、きもいし、おたくだし、…うざいとおもってます」
「うんうざい二回言ったね、二回言ったよ」
「…でも、きらいじゃないです。だから、いつも小杉さんのとなりにいてやってもいいです。…だから、他の人がそこにいるべきじゃないと思うんです」
「……熱があるんじゃないの? あ、ごめん実際あるんだっけ。でも」

急にそんな可愛げのあることいわないでよ、きみのこと好きになりそう。笑いまじり言われたことばに耳がカッとなった。あわてて布団をかぶる。おやすみなさい。言って目蓋をとじると小杉さんはしばらくだまっていたが、やがてなにか思考を放棄するようにため息をついた。

なんだかほっとして、とたんに眠気がやってくる。

このひとは今たしかに殺人未遂犯から僕の中で「なにか」になったが、それがなにかは、朦朧としたいまのぼくには、まるでわからない。布団ごし、ぽん、ぽん、とおでこのあたりを撫でるおだやかなリズムがきもちよくて、この心地よさがずっとつづいたらいいのにとバカなことをそれでも半ば本気で願った。

そうして目覚めて、今度は僕の時計のとなりに置かれた見慣れぬ時計が、小杉さんなりの返事だったらいいのにと、祈った。



(2011.1101)