一、金と知恵




この世は金と知恵だ。

亜城木夢叶も言っている。亜城木夢叶というのは小学生のころより僕のすべてである。憧憬、理想、羨望、嫉妬、すべての矛先が向かうマンガ家のことである。それはもはや一種の宗教にも近い。僕はその言葉を固く信じた。「この世は金と知恵」これは覆りようのない事実だった。

小学六年生のときはじめて僕には「友だち」ができた。はじめての友だちは金で買った。近所の駄菓子屋でたむろしていたクラスメイトに千円札をつかませたのが最初だ。埃くさい狭い店でその子が僕ににやりと笑いかけたあのときの言いようのない興奮は、今でもよく、覚えている。

僕にはそれまで友だちがいなかった。思い返せば幼少の頃から顔立ちの整っていた僕にクラスの女子がひそかに(もちろん気づいていたけど)視線を送っていたのがおなじ男子からすれば気に障ったのだろう。背の高いリーダー格の男子はなにかというと僕を目の仇にし、しかし女子にどう思われるかを気にして直接なにかをしてくることはなかった。せいぜい通りすがりにわざとらしく口笛を吹いたり、下品に笑ったりする程度である。

たかだか小学生の男子と女子でそんなにいろいろな感情、関係があるものなのかと思われるかもしれないがそれは誤解だ。たかだか小学生の男子と女子だからこそそういった問題には大人よりもっとずっと敏感なのである。だって小学生にとって学校の中、クラスの中というのはほとんど世界のすべてなのだから。

つまりその世界で僕はひとりだった。その頃はただただ毎日がつまらなかった。遊ぶ友だちもいなければ宿題でもして時間を潰すしかないし、ひとりであれこれ考える時間も多かったからそれは自然と成績にも結びついた。ますます僕はクラスで敬遠されるようになった。

そんなときだ、「この世は金と知恵」を読んだのは。宿題同様ひまつぶしに手に取った赤マルジャンプにそれは掲載されていた。人の脳を売り買いするジャンプらしからぬマンガ。僕は幼心にもその考えに感動し、すぐにそれを現実で行うことにした。知恵ならひとりで身につけたし、金ならパパに頼めば湯水のように僕のうえから降り注がれた。

そうして僕は人の脳ではなく心を金で買った。おどろくほどかんたんだった。ひとり握らせれば小学生の噂は狭いネットワークを伝わり光の速さでひろがりをみせる。僕にはつぎつぎ「友だち」ができた。毎日僕が放課後の遊びをきめ他のやつらはニコニコとしてそれに従った。王様になったようで気分がよかった。陰でそいつらが僕のことを「ギンコー」「ギンコー」と呼んでいたのは知っていたがどうでもよかった。むしろ僕はそんなやつらにまで「ユウシ」をしてやっているえらい王様なのだくらいに思っていた。

初めて「ユウシ」の打ち切りをしてみたのは中学に上がってからのことである。僕はその頃王様の地位にも飽きを感じていた。気まぐれに臣下のひとりにもう金はやらないと言ってみた。次の日からそいつは僕には一切近づいてこなくなった。どころか僕に関する根も葉もないうわさまで流すようになった。しかし僕はその事実に愕然とするどころかむしろますます興奮した。この世は金と知恵というのはいよいよもって正しいと思ったからだ。

一方で亜城木夢叶はそのころ擬探偵TARPというマンガを週刊少年ジャンプに連載しはじめることになった。原作に作画どちらも高校生だというのにもう連載を持っていた。あいかわらずどこかジャンプらしくない作風で挑むスタンスに僕はますます彼らに対する尊敬を深めた。ファンレターは時間があるときはほぼ毎週送ることもあった。

気まぐれな友だちごっこに興じるかたわら熱心な亜城木信仰をつづけた僕は中学二年に上がり、TRAPの連載開始をきっかけにマンガ家を志すことにきめた。亜城木が中学三年生のときにマンガ家を目指したのはファンだったからよく知っていた。それより一年はやく始めたらどうなるのだろう、僕も連載を持てるようになるだろうか、そう考えたのがきっかけだった。

そうして僕はマンガに打ち込むようになり、くだらない友だちごっこをやめた。元友だちはみなすぐに僕のそばを離れていった。そのようすはさながら砂糖が尽きて四散してゆく蟻たちのようでそれを俯瞰する僕にとってはいっそ滑稽ですらあった。

僕はまたひとりになった。しかし今度はつまらなくなどなかった。そのころ学校にいるあいだの僕は周囲の人間を観察するので忙しかったからだ。小学生のとき無意識にそうしていたように今度は意図的にクラスの中を眺めてみるとじつにさまざまなことがよくわかった。

たとえばクラスで一番かわいいと言われている鈴木さんはじつは一番性格もわるい悪女であった。授業中に他の女子をバカにした手紙を仲間内で回して笑っている。そんな鈴木さんはクラスのスポーツマン加藤くんが好きでしかし加藤くんは鈴木さんがバカにしている宮田さんに思いを寄せている。不思議なものだ。

陰口やら陰湿さをはらんだイメージのある女子より実際は男子の方がぐずぐずした友情まがいの中にいるのも外から見ているとよくわかった。体育祭では二人三脚まで出ていた親友同士の相葉くんと竹内くんがそれぞれ別のグループにいるときは互いの悪口をいっているのにはおどろいた。ふたりは移動教室などもかならず一緒に行ったし昼だって毎日ともに食べている。人間の腹の底というのは心底わからない。

そうして席替えのたび後方の席を希望して狭いクラスを眺めつづけた僕はクラスメイトの二面性を実に三年間観察し、高校二年生になるころには誰もじぶんの近くには置かないことをすっかり心に決めていた。

かといってまったくの無愛想で過ごすというわけではない。それでは中学のようにただのひとりになっておわりだ。たとえば休んだ次の日ノートを借りるあてがないとか、まわりに人のいないことの不便さを僕はそれまでの学校生活でよく学んでいたので高校ではそれなりに明るく振る舞った。クラス全体に「いい人」を演じるのはたやすかった。そういうやつも中学にいたから、僕はただそれを真似ればいいだけだった。誰とでも多少は喋ったことがあるが特定の友人はいない。それが高二の中ごろまでの僕だった。

秋口のことである。秋といえば僕らの高校では文化祭が大きなイベントのひとつだった。極力かかわりたくなどなかったが僕は分担決めのとき風邪で欠席していたのでよりにもよって一番作業の大変な外装係に加えられてしまっていた。放課後はマンガを描きたかったけれど出なければ何か言われるのは目に見えていたのでしかたなく参加した。

そんなときクラスのとある男子が僕に話しかけてきたのだ。思い出すのも虫唾が走るので彼はAとしておく。Aは気さくなやつだった。顔は二枚目半だがムードメーカー的存在で授業中もバカなことを言ってみんなを笑わせるクラスの中心的タイプの典型である。Aは僕と同じ班になったことをひどく喜んでいた。前から七峰と喋ってみたかったんだけど、なかなかきっかけがなかったんだよねー、そういわれて悪い気がする人間はいないのをAはよく知っていたにちがいない。

Aはよく喋るやつだった。買出しのとき、看板の塗装のとき、帰り道、しきりに僕を見つけてはニコニコと話しかけた。僕はいつものようにてきとうにそれに付き合っていたがあるときを境にAに対する見方をかえることになる。

Aが恋愛の相談をしてきた。「おまえだからいうけどさ、クラスのBさん、どう思う? あのコ、かわいくない? でも部活の先輩と付き合ってるらしいんだよなあ」僕は戸惑った。人に悩みを打ち明けられたのは初めてだった。そして錯覚した。さんざん陰で悪口をいうクラスメイトたちを見てきたというのに僕は愚かにも、Aが本当に自分に心開いていると錯覚したのだ。僕は真摯に相談に乗った。Aもよろこんで僕のいったとおりに行動した。AとBさんはそれまであまり話をする方ではなかったが僕のアドバイスによってすぐに打ち解けた。文化祭というのもいい口実だった。

僕は浮かれていた。昔のように金をばらまかずとも自ら僕の友だちになる人間がいたことに驚くとともに、すなおに舞い上がっていた。そうして後夜祭のとき地面にたたきつけられたのだ。

AはもともとBさんと付き合っていた。僕はそのころAにまとわりつかれていたから気づきもしなかったけれど、AとBさんはふたりして、というよりふたりを含むグループ全体がそれを知らない僕をあざ笑っていたのだ。

ちょっと相談したらあいつ本当に俺のこと友だちだと思ってんだぜ、マジうける。普段からすまし顔しててうぜーwくらいにしか思ってないのにさー。僕が体育着から制服に着替えにいっていると思っていたAは廊下で僕がたまたま聞いていたとも知らず教室で堂々とそう言っていた。

僕は教室のドアを開けAを殴った。まわりのやつらが止めるのもきかず殴りつづけた。Aは心底驚いた顔でしかし最後に教師に連れて行かれる僕を見たときには不敵に笑っていた。

僕は学校を辞めた。父親がどれだけ金を積んだか知らないが傷害事件にはならずに自主退学で済んだ。父親は懲りずに次の学校に僕を入れたがったが僕は頑なに拒んだ。あんな低俗なやつらがいるところなど二度と通いたくない。父親は僕を見限り好きにしろと言って放置した。母親ももともと放任主義だったので僕が家にいようがいまいが自分が自由に遊べればなにも気にしていなかった。

父親に見限られた僕に降り注ぐ金の雨は止んだ。金がないとなにをするにしても困る。僕は高一のとき取ったバイクの免許からピザの宅配のバイトを始めた。十八歳未満ができる仕事にしては割がよかった。顧客の中には僕を気に入って小遣いなどくれる年上の女性もいたので楽だった。それなりに見られる何人かとはプライベートでセックスもした。そういう客はますます僕に入れ込みわざわざ指名までして注文をした。店長にはすぐ気にいられた。ちょろかった。

ピザの宅配の金で画材やパソコンを買いマンガを描いた。このとき使ったのは知恵である。ひとりでアイデアを出すより数人で出した方がよっぽど効率がいいからネットでアドバイザーを募集した。画期的な作り方だと思った。僕はこのやりかたで長年崇拝した亜城木を超えてやるのだと思った。擬探偵TRAPを打ち切られた後はおそらく担当にでもいわれてギャグ路線にシフトして失敗、現在は子供だましの推理マンガなど描いている亜城木に負ける気がしなかった。

「この世は金と知恵」過去のじぶんが発した言葉を実践した僕に追い越されたら亜城木はどんな顔をするだろうか、想像すると愉快だった。

そうして、電話が鳴った。



(2011.1119)