二、特別なだれかの特別




初めて七峰透に会ったとき、言いようのない興奮を覚えたのはいいかえしようのない事実だ。彼は快い青年だった。ハキハキと快活によく喋りよく笑い、こちらの話もきちんと聞く、善い青年だった。僕は一目で彼に惹かれた。たとえば黄金の花に羽虫の惹かれるようなどうしようもない魅力だった。たとえば地球の真ん中に引かれる万有引力のような絶対的な法則だった。こんなマンガ家を編集者として担当できるようになって本当によかった、出会ったときたしかにそう思った。僕はようやく特別なだれかの特別になれるのだと錯覚できて、うれしかった。

学校ではいつだって凡庸な存在だった。地味で平凡でとりたてて褒めるようなところもなく、成績表の一言欄にはいつも無難に「やさしい子」と評されるそれが僕。同じ苗字の子がクラスにいればみんなの呼ぶ「小杉」はだいたいそっちになるそれが僕。勇気をだして運動部に入ってみたって三年間ずっと補欠それが僕だった。

せめてひとつくらい突出したものがほしくて勉強だけは必死でしたおかげで大学は有名大学に入れたが有名大学の中でも変わらず僕は凡庸だった。

いつだって特別な存在に憧れていた。たとえば顔がいいとか、スポーツができるとか、そういうのもあるけれどそれだけではなれないものだ。だって本当に特別な子はなんにもしなくたってそのままで特別なんだから。そこにいるだけで、彼や彼女が笑うだけで雰囲気がかわるだとか、しぜんと視線がいくだとか、そういう存在だ。ありていな言葉であらわすならカリスマとでもいえばいいのだろうか、とにかく生まれたときから彼らはそういうものを持っているのだ。

僕は残念ながらそれをひとかけも持たず生まれてきた子どもだったからクラスでそういう子をみつけるとすぐ気になって近づいてみようとした。けれどだめなのだ。特別な子のまわりにあつまるのは僕だけではない。僕よりもカリスマのかけらをほんのすこし持っている子がいつだって特別なだれかの特別になる。凡庸な僕ではだめなのだ。小学校のころは遊び仲間にすら入れてもらえなかったし中学のときは視界にさえ、高校に上がると近づくことさえ諦めた。近づこうとすればそれを煙たがる周りのだれかと衝突することになる。事実高校一年のときはそれがきっかけで殴られた。またあんなことになるくらいなら遠巻きにみているほうがずっとましだと、おもうようになった。

そんな僕のまえに突然現れた特別、それが七峰透だった。全身からまばゆいひかりをはなつ十八歳の若い天才、興奮しないはずがない。初めて会った日の夜はなかなか眠れなかった。これからどういう風にネームを直して、仕事場はどのあたりに手配して、かんがえると楽しくてしかたがなかった。よく喋る、喋りすぎるきらいがあるけれど素直な子だしきっとうまくやっていける、そう信じていた。

確信を打ち砕かれたのは一ヵ月後のことである。七峰くんは突然僕にその手の内を明かした。以前口にしていた「原稿を手伝ってくれるたくさんの友達」は三次元のそれではなかったのだ。インターネットを介在した本名さえ知らないオンラインの「友達」七峰くんは彼らからアイデアをもらってマンガを描いていた。従来のマンガ家をバカにするような根底から覆すようなやりかただった。認めるわけにはいかなかった。

しかし認めないわけにもいかなかった。じぶんのやり方を認めなければ他誌にいくと条件を提示されたのだ。認めざるを得なかった。保身のためではない。彼の才能のためだ。他誌にやるには惜しすぎる。こころのどこかで、やっとみつけた自分の特別を手放したくない、そんな気持ちも、たしかにあったとおもう。

そう、僕は裏切られ軽んじられたにもかかわらず、本心では愚かなことにうっすらと仄暗さを帯びた悦びめいたものを感じていたのだ。七峰くんが僕のまえでは本性をあらわしたことが嬉しかった。いまでもアシスタントの前では明るくやさしくカッコイイ七峰先生を演じている彼が僕にはその本当の姿をさらけ出してくれたことが愛おしく、腹の底からぞわぞわと這い上がってくる愉悦を抑えることができずにいた。

しかし反面、僕を不必要な存在としてひょうひょうと軽んじ詰ってみせる彼に憤懣、嫌悪をおぼえる自分がいたのもたしかだ。担当として二人三脚彼とやっていける、その希望を無残に打ち砕かれた。ときにはアゴや指で命令されることすらあった。そのたび僕は思いのたけを吐き出してしまいたくなったが寸でで踏みとどまった。そうすることで彼との関係をこわしたくなかった。そう思わせるほどに彼のひかりはつよかった。常識ではかんがえられない歪んだ行為にさえかんたんに手を染めてしまう強烈な個性だった。いくら言葉でからかわれ尊厳を踏みにじられたってゆるしてしまう、それが特別ということだった。

しかし特別なだれかの特別になるためにはただ踏みにじられるだけではいけない、ということを僕はじつに半年後ようやく悟ることになる。

季節はもうすでに半袖から厚手のジャンパーにかわり、西暦もひとつ年をとっていた。正月も華やかな七日をすぎたばかりで、しかし七峰くんの仕事場にむかう僕の足取りは重かった。

マンガ家を志すきっかけになった亜城木夢叶のことを七峰くんはいつもひどく気にしていた。気にしすぎていたといっても決して過言ではない。いつのころからか作風まで似せるようになったときは驚愕したものだ。ジャンプ内での順位が落ちはじめたころのことだった。コピーが本家にかなうはずがないのに、追い詰められた彼にはそれがわかっていない。

亜城木夢叶は七峰透にとって特別な存在だった。彼の唯一の目標で、唯一心揺るがす存在だった。きけば小学生のころから熱心にファンレターを送っていたというのだからむりもないとおもう。だから意識せずにはいられない。僕は何度も亜城木くんを気にするのはやめろと口ではいったが実際とうてい無理なことはよくわかっていた。

だから七峰くんの最後の要求を受け入れることにした。七峰くんは亜城木くんと同じ話で勝負したいと言い出した。去年の暮れのことだ。僕はそれをそのまま亜城木くんに伝えた。そうして直接七峰くんを下してもらうしか七峰くんのやり方を否定する方法がないと思った。亜城木くんに負けたらふたりでマンガをつくっていく、そう約束もしていた。

そうして今日、彼の待ちわびた直接対決の結果を持っていった。酷薄な順位を告げると七峰くんはうつろに笑いそして僕とふたりでやり直すと約束したのになにもかも投げ出そうとした。僕はおもわずそれを殴った。ここで終わってたまるか、そう思った。やっとここまできたのだ、やっと、ようやく、彼とふたりで。

僕は右の拳で彼を初めて殴った瞬間理解する。だれかの特別になるためには覚悟が必要だった。相手から決して逃げない覚悟だ。ときには殴ってでもこちらに引き寄せる覚悟だ。なにを言われたってどんなことをされたって信じ続ける覚悟だ。七峰くんだけじゃない。だれの特別になるにも必要なものだ。争いごとを避けて生きてきた僕にはようやくそれがわかった。編集者になってようやく僕の特別をみつけた。僕はぜったいに彼の特別になってやるのだ。初めて彼を殴ったその夜決めた。




(2011.1122)