集英社を出るとすぐに極寒の夜が吹き付けてくる。小杉はジャケットのジッパーをこれ以上あがらないほど引っ張り首に巻いたマフラーをぎゅっときつくした。すぐに喉が絞まってうへえと白い吐息が漏れる。

神保町を早足で行き交う人々は皆一様に暗い顔をしているように見えた。正月が過ぎ去ったとはいえ年の初めはせわしない。小杉とて例外ではなかった。だから忘れ物をそこに取りに行くのに三日ほど要した。(七峰くんは取りに来るのが遅いと怒るだろうか。…いや、遅くたって早くたって怒るんだから一緒か)ため息をひとつついて早足の波に紛れる。

(せっかく今日は仕事を切り上げて出てきたのに、5時でもうこんなに暗いんじゃ意味なかったな)

地下鉄の切符を買いながら小杉はそう思ったが、それはほんのすこし後になってそうでもなかったなと思い直されることになる。

* * *

七峰の会社に着くと主はやはりいつもの不機嫌そうな顔で小杉を迎え、放るようにオレンジ色のパスケースをよこしてみせた。つかみきれず空しく床に落ちたそれを屈んで拾うと顔も見えないが七峰が鼻で笑うようすがある。この子はまったく変わらない。パスケースをショルダーにしまう。いつだったかドラゴンボール柄とかねーよwwと七峰に哂われたそれだ。このところ色がくすんできたがもう意地で変えてない。

身を起こし、ふてぶてしくソファで足を組む少年に目を向ければ不愉快そうに早く帰ってくださいよと吐き捨てられた。大体他人の家に定期を忘れるとかホントありえない、と肩をすくめるおまけ付きで。小杉は言い返したくなる口を一度つぐんで再び開く。

「ごめんよ、ちょっと疲れてたみたいで。…わざわざ時間取らせてすまないね」
「なにそれ、嫌味? ほんと小杉さんてウザイなあー、疲れさせるような作家ですみませんねドーモ」
「…そんなこと、いってないだろ」
「フン、どうだか。…あ、てか、」

夕飯食べてきます? ふと思いついた体で七峰が唐突にいう。ええ? わるいよと小杉が手を横に振ればひょいと身軽に立ち上がった少年は見てくれだけはお綺麗な顔でニコリと笑う。

「お手伝いの人が響さんの分まで作ったんですけど、今日は彼、私用で帰ったので余ってしまって。別に独身で彼女いない歴イコール年齢の小杉さんに気を遣ってるわけじゃありませんから小杉さんも気にしないで下さい」

後半は完璧に余計なお世話である。というツッコミは置いておいて小杉の天秤はガタンガタンと揺れた。せいぜい期間限定であることに無理矢理テンションを上げて口に押し込む慣れすぎてしまった160円のカップヌードルの味とお手伝いさんのつくるあたたかい家庭の味。天秤がこわれた。…有り難く頂戴シマス、馬鹿丁寧に御辞儀をするとバカみたいと笑われた。キミはあざ笑うのとお愛想で笑うのしかできないところをただちに直した方がいいと思う、ショルダーを床に置きながら言うと同時にググウ、小杉の腹が鳴った。小杉さんがそうやってあまりにバカバカしいからしかたないですよと七峰はまた笑った。今度は返す言葉がなかった。そうして、こうなったらお手伝いさんの料理をたらふく食ってやろうと庶民は思うのだった。

廊下のドアをいくつか通りすぎて奥、リビングダイニングがひとつづきになった角部屋が七峰の食堂だった。アシや会社の人間はまた別で、ここには入れないという。響はどうなのだろうか、テーブルに掛けて小杉はふと考えたが、答えを知るよしもないし、聞こうという気も起きなかった。

七峰がキッチンで出来上がっていた食事のラップを剥がす音をさせて運んでくる。和食だった。味噌汁とサバの味噌煮と水菜のひたし、他に小杉にはわからない細々とした料理が小鉢にちょんと一口ずつ行儀良く載せられている。ほんのりあたたかさを伝える匂いにハッとして、小杉は今度は笑われないようにと思わず腹に手を遣った。しかしそれがいけなかっただろう、成長期のガキじゃないんだからとからかう調子の声が耳を打つ。ふしぎと、不快ではなかった。

いただきますと両手を合わせて空きっ腹に遠慮なくかっこみながら七峰と他愛ない話をした。七峰が話を振ってくることはなかったから、どれも小杉からである。そのわりに七峰はそれなりに付き合った。大半は、ばかじゃないの、とか、ふうん、とかそういった返事であったが小杉にはそれで満足だった。ご飯もおいしかった。満足だった。

「ごちそうさま、美味しかったってお手伝いさんに伝えておいてよ」
「ハア、まあ、覚えてたら」
「うん。よろしく」

食器はシンクに置いておいてもらえればいいと言われたのでそうした。そろそろ、と帰宅を告げれば七峰があっと声を上げた。

「電話がかかってくる用事があったんで、ちょっと待っててください」
「ああ、うん、わかった」
「それじゃ、」

スリッパの音をパタパタと立てて慌しく七峰が食堂を出て行く。小杉はテーブルに頬杖をついて口端を指でそっと覆った。

今まで七峰の職場を訪れたのは、決して一回や二回ではない。けれどお手伝いさんに出くわしたことは一度もない。姿も見たことがなければ、物音のしたこともない。

かわりにあるとき七峰のデスクに乱暴に裏返されたA4なら見た。本人がたまたま席を外しているとき書類が放られているのは珍しいなと思ってなんとはなしに手に取った。どちらかといえばくしゃっとしていたから重要なものではないと思ったし、重要な内容だったとしてもそんなところに放っておくのがわるいと言い訳にするつもりだった。A4の紙には煮物の作り方が書かれていた。

そうして今日それが紙から飛び出して立体になってさらにおいしくなって小杉の前に現れた。あのときとっさに腹を押さえた小杉を七峰は笑ったが、笑いそうになったのは本当は小杉のほうだった。数日前、元あった通りにもどしたA4の記憶はそう遠くない。料理全般<家庭料理<かんたん、の順に七峰がリンクをクリックしたであろうようすも、そこには書かれていた。きっと響がこの食堂を使ったことはないだろう。根拠はないが小杉はそう思った。

お手伝いさんが小杉の鞄を持って帰ってきた。

「今度は忘れ物しないでくださいよ、めんどくさいから」
「うん、大丈夫」

それじゃあ書類の仕事があるんで、玄関でこちらを見ずゆるく手を振る七峰とはそこで別れた。

高層階をエレベータで降りながら小杉はショルダーをそっとあける。今日はいつも使っているペンがなくなっていた。財布や携帯、本当になくなって困るものでないのはいつものことだ。マンションを出る。二月の夜は寒さを増していた。しかしほっこりとあたたまった胃袋のせいか小杉はそれほど寒いとは思わなかった。

手癖のわるい嘘つきの少年に「ごめん、ペンを忘れたみたいなんだけど」情けないメールを送るのは明日にしよう。サバの味噌煮をおそらく幾度かは練習したであろう完璧主義の少年の姿を想像しながらゆく帰り道は、楽しかった。


(2011.1009)