改札を出るなりエイジは飛びのいた。ぶつかった後ろの客が迷惑そうににらむ。ごめんなさい、慌てて離れ、緑の看板に書かれた駅名を見上げた。ちがう駅で降りてしまったのかと思ったがそうではなかった。

あらためて男をふりかえる。だらしなく着崩した白いシャツにサスペンダー、縦じまのズボン。そうしてなにより特徴的な、ぎろりとにらむ愛想の悪い、つり目。地元の駅前たしかに、平丸一也は立っていた。エイジは肩にかけた鞄を揺らしながら近づいて、見上げた。

「平丸先生? なにしてるです?」

問いかけると平丸は、会いにきたとだけ短く答える。エイジはもう一度聞いた。

「? 誰にです? お友達です?」
「・・・・づま」
「はい?」
「・・・・・・新妻」
「僕です?」

こくり。長い髪を揺らし平丸は小さくうなずいた。ちょうどひゅるり、風が吹いてその肩が小刻みに震える。エイジはそのときようやく、あ、と気がついた。

「平丸先生、さむくないです?」
「さむい・・だが、上着を忘れた」
「うーん、じゃあ僕のマフラー貸してあげます」

言うなり首からチェックのマフラーをはずし、エイジは背伸びして、頭ひとつ背の高い平丸の首に巻いてやった。東北で育ったせいで、寒いのはあまり苦手ではなかった。ぐるぐる、マフラーは長く、エイジが乱暴に巻いたせいで口元まで覆ってしまう。待て、待て、と平丸が手で押しとどめてもがもがと毛糸のあいだから顔を出す。

「・・・息がしづらい」
「あ、ごめんなさいです。でも、上着を忘れちゃうほど、急ぎの用だったですか?」
「別に、用事じゃない。ただ、逃避に・・・」
「頭皮? 頭がどうかしたですか?」
「・・ああ、考えるのに疲れた」
「おー、そうですか、僕帰ってマンガ描きたいですけどいいですか?」

平丸はまた素直にひとつうなずいた。エイジが自宅の方へ足を向けると無言でついてくる。なんだか親鳥になったような気分だとエイジは思った。エイジはいつだって雄二郎や福田から子ども扱いされているからなんだか新鮮だ。すこし、うれしくて、歩きながら見上げればいまだ平丸が身を震わせているので、エイジはその手をぎゅうとにぎってやった。子どもらしく熱持った体温を平丸の長い冷たい指はそっと、にぎり返した。


家に着くと中井と福田の言いつけどおり、手を洗ってうがいをして、エイジはさっさと普段着に着替えた。作業部屋にもどると平丸は、廊下につづくドアのとなりに座っていた。ドアが開くとふいとエイジを見上げる。エイジは聞いた。

「先生マフラーしてますけどまだ寒いです? 暖房します?」
「べつに、寒くない。新妻の匂いがするからしている」
「そうですかえーと、今日はいつまでいるです?」
「・・・わからない。吉田氏が来るまで匿え」
「はあべつにいーですけど」

じゃあ僕原稿やります、そう言ってひょいとエイジは自分の席に座った。そうしていつものように音楽をつけてペンを手に取り、モノクロの世界に沈んで行った。
ネームを描く手を止めたのは、騒々しい音楽の止まったときである。突然鳴り止んだオーディオにエイジは顔を上げた。横にはリモコンを持った平丸が立っている。

「うるさいのはきらいだ」
「僕はしずかなのは苦手です。ノークワイエットです」
「・・・俺はうるさいのはきらいだ」
「むー、じゃああっちの部屋に行っててください」
「いやだ」
「なんでです」
「あっちの部屋にはお前がいないだろう」

エイジは頭の中、音楽と平丸、天秤にかけた。トーン一枚分の重さ、平丸に傾いた。リモコンは持ってていいですからそこに座っててください、そう言って自分のとなりをエイジは指した。平丸は素直にうなずいてぺたり、床に腰を下ろした。

しばらくしてエイジはネームを描き終えた。昼休みにメロンパンを詰め込んだだけのお腹はぐうと鳴いている。

「平丸先生、夕飯どうし、」

言いかけて止まった。いつの間にか平丸は、引き出しにもたれかかり眠っている。考えるのに疲れたと言っていたのを思い出した。(うーんでも、ここで寝ちゃうと風邪引いちゃうです)エイジはとなりの部屋から毛布を持ってきてかけてやった。それから近くのコンビニになにか買いに行こうとして、すこし考えてからやめた。起きたとき自分がいなかったら平丸がおろおろするのは、あまり他人を気にしないエイジにも予想がついたのだ。大人しく、中井がまとめておいてくれた出前ファイルを手に取った。


のろのろ起きて出前の店屋物を食べ終えると平丸はふああとあくびをした。するとそのときちょうど、ヴヴヴと鈍いバイブ音が床を通って部屋にひびく。平丸のズボンのポケット、携帯だった。鳴りつづけているところを見ればどうやら電話のようだ。ちっと舌打ちして、平丸は無視した。

「? 出なくていいです?」
「いい、どうせ吉田氏からだ」
「担当の電話は出ないとだめですよー」


「あ」
「もう働きたくない、俺はここに住む・・」
「え、うーん、僕はべつにかまわないですけどでもだめです、平丸先生はちゃんと帰ってマンガ描くです」
「いやだ、描きたくない、もう働きたくない、ただ漫然と生きていたい」
「だーめーでーすー! 僕平丸先生のマンガ好きです、もっと描いてください」
「!」

ふいに、平丸の表情が変わった。ぱちぱちと、数度まばたきをして首を傾げる。

「君は俺が好きか?」
「はい僕先生のマンガ好きです」
「そうか俺が好きか、」
「はい。だからはやく帰ってつづき描いてください」

平丸はしばらく両腕を組んで、考え込んでいるようすだった。それからのそりと腰を上げ、帰るとひとこと言って、立ち上がった。

「あ、マフラー、次くるとき返してくださいね」
「つぎ、来ていいのか」
「はい、いいですよ。原稿終わったらいつでも来てください」
「・・・わかった」


どこからかもどった平丸が急にやる気を出しめずらしくサクサクと原稿を描いたことに、捜し回りくたびれはてていた吉田は歓喜した。しかし原稿が終わったとたんまたどこかに消えた平丸に、吉田は真剣に、GPS付携帯を持たせようと思った。

(2009.0623)