R18 瓶子×編集長×吉田


上昇するエレベータの中尻ポケットを探り合鍵を取り出した。キーホルダーひとつつけず無造作に扱っている鍵なのになくしたことはなぜか一度もない。癪である。

そう、俺は本当は、半ばこの鉄のかたまりをなくしてしまいたかった。なぜならそれは自宅のものではない。今日みたく非常識な真夜中に俺を呼び出し無体を強いるたいそう身勝手な男の家の鍵なのだ。初めに渡されたときだってそれはひどかった。気まぐれに床に投げ捨てたのをわざわざ拾わされた。

あの人はいつだってそうやって俺を踏みにじる。俺の意思でそうしているのだと植えつけるように思考まで蹂躙する。あくまで命令はしない。今日だって本当は呼び出されたわけじゃない。お前今から来るか、疑問系を装った確定をメールで投げつけられただけだ。しかし命令ではない。断ったってよかった。断れない俺がわるい。断れないと知りながらそんな風に誘う相手はもっと、ずっと、たちがわるい。

エレベータのドアが開く。ホテルのように絨毯の敷かれた廊下とのわずかな隙間、暗い暗いエレベータとの間にうっかり手の中の鍵をすべり落とせたらどんなに楽だろうと夢想しながら通い慣れた家の玄関を開けた。この時間にインターフォンを鳴らすとひどく煙たがられる。酔いが覚めたといって一度ことさらひどく抱かれてから気など遣わなくなった。

けれど、と今日は束の間その場に立ち尽くす。足下には見慣れない靴があった。縦に長い廊下、左手奥の寝室からはかすかな明かりが漏れている。嫌な予感がして、立ち去ろうか、どうか、しばし悩んでいると携帯が振動した。開いてみれば家主だ。どうやら予感は的中したらしい。ため息をひとつつき、せめてワンコール分は焦らしてから通話に出る。すぐに荒い息遣いが聞こえて吐きそうになった。電話の主は途切れ途切れに行為の物音を挟みながら泊まっていけと俺に言った。終電もうないだろうと。(…なくなるような時間に呼び出したのは誰だっつの)

はあそうですか、居間のソファ貸してください。言えばお前も交ざるかと笑いまじりに聞き返され返事もせずに切った。足下をもう一度見遣る。(…瓶子さんか)俺は誰に見られているわけでもないのに平然とした顔をとりつくろって、廊下を通り過ぎた。寝室から漏れる光は、不自然にゆらゆらと揺れていた。

つきあたりの居間の照明をひとつ点けて上着を脱ぐ。部屋の真ん中どんと置かれた黒革のソファに身を倒すと馴染みの香水が匂い苛立ちが腹に積もった。ほどよく押し返す革の感触から顔をそむけ天井を向き、ソファの肘置きに乱暴に足をおいた。たたんで床に置いた上着をたぐり肩にかける。居間は広く、すこし冷えた。鼻の頭がいくらかつんとする。上着をずり上げるとあの人の匂いがすこしだけうすくなってほっとした。はやく眠りにつきたくて目をつむる。けれどそうすると耳が過敏にでもなるのか時折り遠い嬌声がきこえていやでも覚醒してしまう。男の喘ぐ声なんて聞きながらやすらかに眠れるほど神経が麻痺していればよかったものを。

編集長は残酷だ。今日のようなことだって初めてではない。まるで誰だっていいとでもいうように何人も呼んできっと最初に来た相手と寝ている。二番目に来て放置されるなんてざらだ。ひどいと着いた瞬間帰れといわれることだってある。今日は寝床がもらえただけまだましな方なのかもしれない。(まあ、だんだんエスカレートしていく行為の声をのぞけば)目を瞑る。つよくつよく瞑る。なにも考えなくていいように瞑る。呼ばれれば鞄持つ余裕もなく手ぶらで来てしまう自分だとか、同じ合鍵を持っている人間の数だとかは、頭の隅に、追いやった。


そうして目覚めるとふたりはすでに出社したようだった。気配がないなと思いながら起き上がればいつのまにか毛布をかけられている。上着は丁寧にたたまれテーブルに置かれていた。上等のやわらかな毛布を指の腹で撫ぜながら、こういうのはいやだな、と思った。編集長は気まぐれにやさしさをふりまく癖がある。たとえば行為の最中たわむれに愛をささやいてみたり、社内であっても人目がないのをいいことに、子どもにするみたいに俺の頭を撫でてみたりする。悪癖だ。愚かな俺はその気ままに期待してしまうのでやめてほしいと思う。

あくびをひとつして寝乱れた前髪をかきあげる。壁掛け時計は昼前を指していた。急ぐ日でないからさして問題はない。シャワーでも借りていこうか、思ったところで携帯の点滅に気づく。メールが届いていた。昼食に付き合うよう短く書かれている。俺じゃなくたっていいくせに、思いながらとじて、立ち上がる。

毛布をたたんでそそくさと家を出る俺は、けっきょく捨てられない合鍵でドアを閉める。


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歯を磨き終えても編集長が玄関にやって来る気配がないので居間をのぞきに行き、すこし後悔した。

ガラスのくりぬかれたドアの向こうではソファにそっと毛布を掛ける姿が見える。同時に遅かったのはこのせいかと納得した。手つきはひどくゆっくりで、吉田を起こさないよう気遣っているのはドア一枚挟んだって見てとれた。…なによりその表情が、みたことのないそれだった。拳を握り締める。編集長の手が吉田の前髪に触れたのが視界に入り、背を向けた。

昨日のようなことはしばしばあった。夜半に呼び出され望まれるままに抱く。途中で相手が俺に奉仕させながら携帯をいじる。呼び出すのはいつだって吉田だ。そうして数十分後にやってくると編集長は俺に抱かれながらすぐそばの相手に電話をかける。その時間が嫌いだった。俺の方がずっと近く、それこそゼロミリの距離にいるのに吉田の方がその心の近くにいるのだと実感させられる。好きな相手ほどいじめるタイプなのは長い付き合いでよくよく知っていた。腹が立って乱暴に責めたところで相手を悦ばせるだけでますますどうしようもなくなった。しかたがないので何も考えなくて済むように、そういう日はただただ腰を打ちつけた。そのうち疲れて眠れるのでそうした。編集長はとくべつ止めるでもなく、善がっていた。

足音が近づいてくるのにはっと顔を上げる。振り返ればちょうど編集長が廊下のドアを開けた。行くぞ、言われるままに従い家を出る。何気ない仕草で編集長が家のドアを閉めた。それを凝視している自分に気づきあわてて俺は振り返りエレベータのボタンを押す。

あの鉄のかたまりが、俺は、欲しくて欲しくてしかたがなかった。編集長の家の鍵。吉田は持たされているあの鉛色。俺が、開けられなければいいと思っていつも閉める玄関をいとも簡単に開錠して吉田は上がってくるのだから、嫉妬と羨望が募る。しかしだからといって編集長に強張ることができるわけでもなかった。案外欲しいといえばくれるのかもしれないが、きっと吉田には自分からやったものを、俺の方からねだるのは、なんだか悔しくて、できなかったのだ。

エレベータの上階までくるのを気まずく待っていると、編集長がふと俺の肩にもたれた。おどろいて見遣れば眼鏡の下は閉じられている。昨日の疲れが残っているのだろう。無理をさせたなといくらか反省しながらも、近くにある他人の香水が心地よかった。(賭けたっていいが、きっとあいつにはこんな甘え方をしないと思うから)

はやく来ればいいとおもっていたのに、もうすこしだけゆっくり動いてくれやしないかと、俺はつまらないことを考えていた。


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吹っ切れた
好きなものは好きなんじゃい
編集長は二人とも好きなんじゃい

(2011.0417)