きもちわるい話注意



舌を切るとヒトは死ぬというのは迷信らしい。正確に言えばただしいのだが、ちょっと切ったくらいでは死には至らないのだそうだ。噛み切って、出血がひどいときはそうなるらしい。推理ものを書く途中になにかで読んだ。

どうだっていいやと思いながら、鋭く光る切っ先を口に含む。大文字Gの凹凸がある面を舐り、付け根に口付け、それからインクに浸して上から垂らす。慣れた漆黒の滴るペン先、鉄と有害物質の味。舐めしゃぶってうっとりと、床に座り込んだ。サイコーがコンビニに行くと行って部屋を出てから二、三分、あと十分はこうしていられると思うと、幸福に肺が満たされる思いだった。


以前は、サイコーが絶対に来ないとわかっているときだけだった。

無造作に机の上に置かれたペン、気になって手にとって、そうしてある日口にしてからは、もうこれなしではいられなくなってしまった。最初はインクはまずくてとても口にできなかったけれど、すこしずつ含んでいくうちにそのどろりとした毒を好むようになった。

サイコーのペンだから意味があった。サイコーが毎日手にして、その魂を込めているものだから、価値があった。白い紙にサイコーが込める気持ちがすこしでも俺に刻まれるようなそんな気がして、そのペン先からインクを飲むのはたまらなく幸せだった。尖ったペン先はたまに皮膚を引っかくことがあったけれどサイコーのペンでできた傷なら消えなければいいとおもったし、もし舌を切り裂いて死んだとしても、本望だとおもっていた。

奇妙な趣味だとはわかっていたがやめられなかった。じぶんの血の中にサイコーが混じっていくようで、自分を形成する元素がサイコーにつくりかえられていくようで、とめられなかった。俺は吐き気がするくらいに、サイコーが好きだったのだ。


すぐに帰ってくると知っていたから今日は軸には触れず、唾液はティッシュで拭ってゴミ箱に捨てる。舐めた後の処理と気だるさは、自慰をしたあとのそれによく似ていた。

のろのろと立ち上がって、ソファにもたれこむとちょうど、玄関の開く音がする。

あれ、シュージン、寝てんの? 棚の向こうから声がする。肘をついて上半身を起こすと、ビニル袋下げて帰ってきたサイコーは一瞬足を止めた。眉根に皺が寄る。

「なんかシュージンおまえ、最近顔色わりいぞ、大丈夫かよ」
「え…? …大丈夫に決まってんじゃん、俺の心配するくらいなら彼女の心配しとけよ、亜豆さん妬いちゃうぞ?」
「バカ言ってんな」

ぺしり、軽く頭をはたいてサイコーが横を通り過ぎる。いつもより手に力がないのは俺を心配しているせいなのだろうとおもうとにやけてしまう。サイコーが一瞬でも、俺のことを考えているとはっきりわかるのが好きだった。

作業机に置いたビニル袋から、サイコーは飴を取り出して口に放った。食うか、目線で聞かれ、ゆっくりと首を横に振る。どうでもよさそうにうなずいてサイコーは椅子に座った。欲しくなかったわけじゃない。インクの味を忘れたら、身体をめぐるサイコーの濃度が減ってしまいそうな気がして、嫌だったのだ。(たぶん、一般的に俺は変態といわれる部類なんだとおもう)

サイコーの手がペンを握る。インクの蓋を開けて、黒い海に浸す。そうしてぽたぽたり、数滴たらしながら、持ち上げる。(なんか、卑猥)ひどくそそられて、俺はサイコーが原稿にペン走らせる様を、じっと、見つめていた。

数分前までそのペン先を、俺が背徳につかっていたことをサイコーはしらない。背がぞくりとした。いたずらっこ心理。(だいぶ、ひね曲がった)

しばらくして原稿に視線を落としたままサイコーは言った。

「明日、画材屋寄ってからこっち来るから」
「…ああ、」
「なんかここんとこ、妙にインクの減りが早いんだよな…」
「ふーん。…俺も一緒に行こうか?」
「んー? まあ、好きにすれば」

うんとうなずきながら、こころはひどく晴れやかだった。あの指がインクを手に取る瞬間を見ることができるのか、俺はなんて幸せなんだろう。


(血も骨も、骨髄まで満たされたら、いつかこころも満たされるかもしれないだろ)



(2009.1215)