原稿を受け取り集英社にもどるとエレベータの前で編集長と行き逢った。手にした新品の煙草の箱を見るにすぐそこのコンビニまで行って来た帰りだろう。軽く会釈をして上階からエレベータの降りてくるのを待つ。

あわただしい昼休みはちょうど過ぎたところで他に人はなかった。会話もない。冷ややかなコンクリートの廊下には上階で止まった箱のチーンという音がやたらに響く。妙に長く感じたあと、ようやく扉が開いた。

ひとりふたりの乗客を降ろしたエレベータに連れ立って乗り込む。先に乗った編集長の指は俺のために開くボタンを押すこともなく、4階を命じるとさっさと扉を閉じにかかる。時間に厳しい編集者だからではなく、絶対に個人的な趣味だと思う。

口を開いて嫌味でも言おうか、考えた瞬間エレベータが閉まり、気づいたときには俺はしたたかに頭を壁に打ち付けていた。編集長が俺を強引に圧しつけたのだ。シャツ一枚、背中の向こうに感じる壁が冷たく、腹に密着した身体が熱い。唇に押し入ってきた煙草くさい舌はそれより熱かった。

思わず息を詰めてしまったせいで呼吸がつらい。小脇に抱えていた原稿を取り落としそうになり震える腕に力を込めるとよりしつこく口内を舐られた。歯列をなぞられ舌を絡められ、頭が痛みのせいでなくぼうっとする。すぐそばで聞こえる耳音に気が遠くなった。膝の力が抜けそうになるのは押し付けられた男の腰で支えられる。

は、と鼻にかかった吐息が口付けの合間に漏れるとそれすら封じるように唾液を吸われた。この人は俺を殺す気なんだろうか、ぼやけた視界でなんとか焦点を間近に合わせると眼鏡越、視線の合った編集長は瞳だけで俺を笑ってみせた。カッと頬が熱くなる。舌の裏をきつく吸う男をおもいきり噛んでやろうか、思ったところでタイミングわるくエレベータが到着を喚く。編集長は素早く身を離した。ドアが開き、見知ったキャラクターたちの並ぶ廊下が見える。


微かにずれた眼鏡を上げ、上着を軽く正すと何事もなかったかのように編集長はエレベータを降りて行った。すれちがった誰かと挨拶を交わす声すら聞こえる。

俺は乱れた呼吸をなんとか直し、口元にたれた唾液をごしごしとシャツの袖で拭ってその後を追った。編集部には、何度か手の甲を頬に押し当てて気持ちだけでも冷ました後に入る。

たった、エレベータ4階分の時間で俺を翻弄した男はすでに自分の席に座り日常の表情を貼り付けて仕事をこなしていた。狼狽を欠片でも見受けられるのは悔しく、俺も黙ってデスクにもどり自分の作業を始める。ややあって机の上に置いた携帯が鳴った。メールを開ければ最悪の嫌味が届いている。

『顔が赤いが、気分でもわるいのか』

(……くそったれ)

煙草くさくて気分がわるいです。喫煙家に堂々と返して携帯を閉じる。気まぐれに人を弄ぶ男をちらりと横目で見遣ると携帯を開けて機嫌よくにやにやと笑っていた。俺の嫌味なんて赤ん坊のぐずったようなものなのだろう、腹が立つ。

むしゃくしゃする気持ちを忘れようと作業にもどりかけたところでまたメールが鳴った。くそ、今度はなんだ。…それは申し訳ないからつぎに口寂しくなったら煙草のかわりにお前にしておくとりあえず今夜付き合え? クソ上司くたばれ。

口移しで肺ガンになるのも気まぐれな呼び出しで痔持ちになるのも、俺は御免だ。



(2011.0402)