こんなにノックをためらったのはいったいいつ以来だろうか。記憶を遡れば彼と出会ったはじめのころまで巻き戻る。この子はすごいマンガ家になるぞという単純な期待、しかし本人の無口が不気味であの頃はひどく緊張していた。今はもう慣れてそんなこともなくなったと思ったのに今日ばかりは勝手がちがった。アパート二階の廊下、かれこれ夕陽の色が赤から青に変わるくらいの時間立ち尽くしている。いいかげんご近所の方に不審がられないか心配になってきた。カラスはそんな僕をバカにするかのように笑いながらはばたいてゆく。

迷っていた。きっと担当作家に連載終了を告げる編集なんてみんなこんなもんだと思う。二人三脚マンガを作ってきた相手に平気で言える編集者がいたら会ってみたいもんだ。ぜひその秘訣を教えてほしい。僕にとってはまだ数えるほどしか経験したことのない通告、伝える相手がわるすぎた。脳裏に浮かぶドア一枚向こうの作家の顔、幾度目かわからぬ嫌な想像がじわりと僕の背を伝う。かつて一度連載会議に落ちただけで人生のゲームオーバーに向かいかけた彼が耐えられるとはどうにも思えなかった。僕はおそらく相当に言葉を選ばなければならないだろう。彼を最低限しか落ち込ませず、次の連載につなげていくための言葉を選んでやらないといけない。しかし口だけは達者と上司に皮肉られる僕の喉が今日ばかりはひどく渇いていた。

静河くんを傷つけたくない。心配している。絶望させるのが怖い。

全部を担当としての気持ちだといえば嘘になる。数年の付き合いのあいだに生まれた感情を公私で区切り分けるのは今さらむずかしかった。

夕陽の滲んだ汗がうなじを伝い夜の混じる風が冷たく撫でていく。どうしよう風邪をひくな、やっぱり一度帰って、明日にしようか、拭う余裕もなく考える僕の目の前にそびえるドアが、不意に、開いた。

「――あ、」
「…山久さん?」

出かけようとしていたらしい静河くんが小首をかしげる。出鼻をくじかれた僕にはコンニチハと硬い返事をかえすしかできなかった。もう夜ですよ? ぎこちない笑顔で小さく笑う静河くんに、なんだか泣きたくなった。


買い物にいくところだったが後でいいという静河くんに招かれ部屋に入る。行ってきていいよと僕は言ったが静河くんは頑なにそれをよしとしなかった。背の低い机にお茶とそれからタオルを置いて向かいに座った静河くんが顔を上げる。気づいてどうもと汗を拭った。タオルで皮膚をなぞる、ただそれだけの動作がぎくしゃくしていないか、僕はすこし不安だった。(本当はそんなことを気にしている時点でぎくしゃくしているに、ちがいないのだけれど)

山久さん。めずらしく彼の方から切り出してくる。どうでしたかと続けられた言葉の示す意味に背筋がぴくりとする。連載会議の日付は静河くんも知っていた。唾を飲み込んだ音が狭い部屋に妙に響く。口を何度かひらいてはとじ、ああ、やってしまったと思う。察しのいい静河くんならこれだけでわかってしまったにちがいない。僕が嘘をついたってすぐに気づく聡い子だ。やってしまった。膝に置いた拳が震える。どう伝え直せばいい、必死で考えるのにこんなときばかり出てこない。軽い言葉ならいくらでもいえるのに、なんで大切な相手にはこんなにもむずかしい。(僕には今までそう思うような人がいなかったからか)

顔を上げていられず、目を伏せたときふと視界を横切るものがあった。静河くんの手が机の上にあった携帯を取ったのが見える。なにか言いたいことがあるのだと僕にはわかった。以前と比べればずうっと会話のできるようになった彼だが内容によっては未だに口で言えないことも多い。もうすぐ僕の携帯が鳴るだろうと思うと緊張した。

長い指が携帯を打つ。その手に対してはいささか小さい携帯を、どうして静河くんがあんなに早く打てるのかいつも不思議に思っていた。けれど今日はすこしばかり考えながら打ち込んでいるらしい、手つきもパチパチいうテンポも普段とはちがった。

そうして静河くんが手の中の電波をスッと僕に向ける。画面を読めというわけではなく癖だ。数十センチの距離にいるのに本人は電波を向けないと気に入らないらしい。へんな癖と思いながらいつも携帯をひらく。緊張を伴った振動が掌に走る。呼吸を落ち着けながら携帯を開いたのにあやうく取り落としそうになった。右手、左手、また右手、おろおろと携帯をおさえる僕に静河くんが噴出すのがきこえる。(だって、しかたがないじゃないか)

連載終わっても山久さんは僕を見捨てません。
だから僕は、ずっと大丈夫です。

指が震えたが受信メールに保護をかける。唇を噛み締めた。泣いてしまいそうだし、にやけてもしまいそうだ。出会ったころの静河くんにこのメールを見せてやりたい。きみはまだ誰かを信じられるんだよと教えてやりたい。それが僕だったことがひどくうれしい。静河くんが立ち上がる。夕飯たまには食べに行きませんか、自分から誘う彼はもうあの頃とは決定的になにかがちがっていた。静河くんの好きな店の名前を答えると、彼は自分の部屋のドアを開けた。


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静山たぎる
書くのむずかしいんだけど、でもすごく楽しいので、練習します
(2011.0517)