ぱたん、教科書を閉じると一息吐いて、高木は中指で眼鏡を持ち上げた。それから首を二、三度捻って、机の横に立てかけていた鞄を持ち上げて机の上に置く。乱暴につかまれた物理の教科書はするりと鞄の中に消え、かわりに灰色のマフラーが出てくる。そういえば去年の今頃あたしが贈ったものだった。(なんだ、使ってくれてるんだ)視線に気づいた高木がじろりとこっちを見た。

「なに見てんだよ、惚れた?」
「もう惚れてる」
「いやつっこめよ」

はは、笑いながら、帰るぞと言って椅子を机の下にギギと収めた。あたしも立ち上がり、高木の前の席、誰だか知らないが羨ましいクラスメイトの椅子を元にもどす。(短いあいだだったけど同じクラスみたいに思えて楽しかったよ、ありがとう)

電気を消して高木の教室を出ると、いつもと変わらない廊下なのにちがう景色のように見えて、なんだか新鮮だった。濃紺の混じった夕日が差し込む廊下を、並んであるく。部活も冬場は活気がなく、校舎にはほとんど人影もなかった。規則正しく揺れるとなりの手に、そろそろと伸ばすとぱっと、高木はそらした。廊下の真ん中立ち止まり、顔を見合わせる。

「いや、彼女だし」
「いや、学校だし」

しばらく見合わせて、それからふたりで噴き出して、また、歩き出す。雲の流れるたび色彩の変わる夕陽のかたちがきれいで、そのひかりに一歩一歩刻まれる影がきれいで、忘れっぽいあたしだけれどこの景色はずっと、覚えていられたらいいなとおもった。

下駄箱につづく薄暗い階段を下りながら、あ、と思い出してあたしは高木にお礼を言った。は? なに? 振り向いた高木は怪訝そうに首をかしげる。

「テスト勉強、あたし一人じゃ大変なことになってたし」
「あー、そんなことかよ」
「もう、そんなことじゃないよ、ほんっと物理やばいんだから、あたし!」
「だったらとるなよ、物理」

呆れた顔で、高木は自分のクラスの方の下駄箱にすたすた行ってしまった。柱をひとつ挟んだじぶんの靴箱からローファーを取り出しながら、高木とおんなじ選択科目にしたかったんだもん、こころの中でつぶやく。うしろでははぐしょん、乙女心をまったくわかってない男が思いきりくしゃみをしていた。(もう! あたしいますごく女の子っぽいこと、考えてたんだけど!)ため息つきたい気持ちになったけど、昨日原稿終わったばかりなのに遅くまで付き合ってくれたのはうれしかったから、文句は言わないでおいてやった。

玄関を出るといつものように自転車置き場に向かう。くだらない話しながら歩いていると、途中、野球部の集団と鉢合わせた。すれちがいざま、こっちに向かって手を上げるクラスメイトにお疲れと声をかけるととなりの高木が不意にあたしの手を握った。通り過ぎてゆく集団を目で流して、それから見上げた。

「学校だし、じゃなかったの?」
「……あー、ほら、さみいから」
自転車乗ったらもっと寒いしさ、高木は嘘っぽい言い訳が得意だ。顔を背けられて表情はよく見えなかったけれどつないだ手はめずらしく熱くて、問いただすのもなんだかかわいそうで、ふうんとうなずいてあげる。

すこし行って、もう野球部いないけど、と言うと、べつに誰と仲がよくても関係ねえよと高木はじぶんで墓穴を掘った。しかもすこし、苛々しているのかそれには気づいていない。(ちょっと、かわいい)ぎゅうと、体温をつよく握るとバカップルみたいだからやめろよと面倒くさそうに言われた。(もう十分、バカップルですけど!)にやにやしてんな、きもい、という言葉には華麗なひざかっくんを喰らわしてやった。


「…あ」

並んだ自転車の番号を回しながら高木は思い出したように言った。なにと聞けば、サドルに跨ってから、ちらりとあたしを振り向く。

「この前、最終進路調査票、配られたけど、」
「ああ、あれ」
「おまえ、お嫁さん、ハート、とか、書くなよな、寒いから」
「っそ、そんなの、書くわけないじゃん! あたしのことバカにしすぎ! …そりゃ、バカだけど」

ていうか一回書いたけどじぶんでないなって思って消したんだから、とは、言わない。おくれて、自転車に乗る。まばらになった自転車置き場は、いつもよりずっと、出るのが楽だった。地面をつよく蹴ったとき、高木がつぶやいた。

結婚とか、本当に責任持てるまで言いたくない。

走り出した自転車、マフラーが追い風に流る。ふわり、好きな人の匂いがした。前をゆく背中はいつもより、なんだか、大きくみえた。

(ほんとはあたしのこと、まじめに好きでいてくれるって、泣きそうなくらい、…しってるんだよ)


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高見? でいいのかな?
カプ表記がわからないとりあえず高見で
本誌いまアレだけど、ちゃんと仲直りしてね
ふたりが仲良くしてんの、すきだよ


(2009.1209)