移り変わる名前も知らない緑は、実家の近くに生えていたものに似ているけれどその色味はやっぱりどこか、ちがうようで、ここは東京なのだと実感した。

ときおり窓越しに影をつくる葉のかたちも、こんなにトゲトゲ、していなかった気がする。バスはゆっくりとはいえ斜面を登っているから、単なる思いちがいなのかも、しれないけれど。

バスは、小さいころからあんまり好きじゃなかった。乗っているあいだは酔ってしまうからお絵かきができなかったし、それに、幼稚園のお迎えバスは、朝はよかったけれど帰り道は、ひとりずつお友だちが降りていってしまうからきらいだった。僕の家は、通う子どもたちの中ではいちばん、遠くだったのだ。

小学校、中学校と上がるうちに、顔ぶれのかわらない友だちは、エイジはバスがきらいだからといって、賑やかな遠足のときも放っておいてくれるようになった。わいわいとウノやらトランプをする声を聞きながら僕はきまって、膝を抱えて外を眺めていた。ほんのすこし開けた窓から流る、草の香りや、どこまで行っても終わりのない広い空は、普段僕を囲むそれとおんなじはずなのに、黒檀色の枠で切り取られているだけで、なんだか特別にみえた。その景色だけでいえば、僕はバスが好きだったんだろう。たぶん。


かわって、東京で初めて乗る、一時間半、僕にとっては長距離の遠足バス。息苦しかった。空調が利くようにと窓を締め切られた密閉空間は狭い都会の空気で満たされていて、たまに回ってくる写真部に向かってピースするのも、大貧民の誘いにことわりを入れるのも、面倒だった。頭上からは乾いた冷気が送り込まれ、誰かのチョコレートの匂いがし、ポテチの音が聞こえていた。たぶん、僕は酔っていたんだろう。慣れない六月の新しいクラスメイト、好きじゃないバスの中、身をちぢこめていたのも、きっと、わるかった。

だんだん胸が圧迫されるような感覚がしてきて、先生に言ったほうがいいかもと、揺れる車内で立ち上がろうとしたとき、僕のとなり、後ろの方に出張中だった友だちの空席に、濃藍のジャージが座った。

「新妻大丈夫? 気分わりいの、」

眼鏡をかけた短髪、ちょっと細身の、クラスの男子。背の順で僕の二つくらい前だった気がする。名前は覚えていなかった。眉毛のかたちがきれいなハの字で、それだけがよく印象にのこっていた。

大丈夫です。あんまり大丈夫じゃなかったけど、うなずくのは、たまに顔見せる高校生のプライドのせいだったとおもう。それでも気遣ってくれたのか、彼はいるかとなにやら差し出した。フリスクの青。ひとつもらって含んでみると、いくらかすっきりする。

「ありがとー、ございます」
「うん。今日は、岡部たち、混ざんねえの?」
「バス、あんまり、好きじゃないです」

そうなんだ、興味なさそうにうなずいた横顔は、そういえば僕たちのグループとはあまり付き合わない顔で、どうして今日に限って話しかけてきたのだろうと不思議におもった。いつもは、なんだか頭のよさそうな面子の中に、いたおぼえがある。僕の視線に気づいたのか、眼鏡越しのつり目は笑う。

「前からさ、話しかけてみたかったわけ。高校生で、漫画家ってすげえじゃん」
「そうですか」
「うん、美術の時間とか、なんかおまえ、すごいし」

僕にとっては名前もしらないクラスメイトなのに、むこうはそんな風に僕を知っていたのかとおもうと、なんだかへんなかんじがする。足の薬指が無性にむずむずするような、そんなかんじ。きゃあきゃあと騒ぐ女子の声にも負けず、彼の落ち着いた声は聞き取りやすかった。

「ホントはさあ、勝手に心配とか、してたんだよ、俺。じぶんで言うのもアレだけどけっこうお節介でさあ、新妻ってやっぱ、他とはちがうかんじ、するんだよね。だから、入学式んときから、こいつクラスでやってけんのかなーって、思って見てた」
「はあ」
「そうそれ! そのどーでもよさそうな返事! いじめられたりしねえかなって、冷や冷やしたり、してたんだぜ」

あんまりピンとこなかった。どうでもよさそうなと言われては、もう一度「はあ」というのもちがう気がして、黙ってうなずく。からからと彼は笑った。

「まじ、余計な世話だったけどな。おまえ体育祭のときなんかヒーローだったし、授業中の落書きとかすげえおもしろいし、みんな、なんか変なやつって思いながら打ち解けてったしさ」

今日も、ひとりで座ってたけど、はぶられてるとは思わなかったんだよね。僕がしゃべらないのも気にせずにそこまで言って、長話してごめん、ホントに気分わるかったら先生呼べよとのこして、前の方の席に、彼は帰っていった。

しばらくして最後のフリスクの薄いかけらを喉に落とすころ、ああ、名前を聞くのを忘れてしまったと気がついた。そうしてそれはちょうど、目的地の公園についたところで、けっきょく、僕は家に帰るまですっかり、そのことは忘れていた。



夕飯の親子丼を食べながらぽつぽつとそんなことを話せば、床に腰を下ろした雄二郎さんはなんだかやけにうれしそうにふんふんと相槌を打っていた。その前にはもう空のどんぶりが置かれている。忙しくて昼を食べるひまがなかったそうだ。全部を聞き終えると、じゃあ月曜日はちゃんとその子の名前をきくんだよと大人らしく言ってから、にへりと、笑う。(ちょっと、きもちわるい)

「なにがおかしいですか」
「え、ああいや、新妻くん、案外ちゃんと、やっていけてるんだなって、俺も、ちょっと、心配してたから」
「心配ですか」
「そりゃあ、僕はご両親から預かってるんだからね」

そういえば、昨日もそんなこと言っていたのをおもいだす。お母さんから預かっているんだから、せめてこれくらいね。あちあちと、ラップにくるまれたご飯と全身で格闘しながら。夜遅くにつくられたお弁当は保冷剤につつまれ次の日の昼もうすっかりつめたく、固くなっていたけれど、おいしかった。思い出してごちそうさまでしたというと、まだ食べ終わってないじゃないか、雄二郎さんは不思議そうな顔をする。大人のくせに、どこか鈍い人だった。

「お弁当の、ことですケド」
「あ! ああそっか、うん、だってみんな、お母さんの手作りだろう? ひとりだけコンビニとかって、なんか、いたたまれないじゃないか」

中学のとき一回母さんが寝坊して、弁当屋の持たされたことあるから、わかるんだよね。雄二郎さんはわらう。おかげでめずらしがった友だちのと交換してもらえたけど、と。

正直僕はコンビニのでもお弁当屋さんのでもよかったけれど、そんな風にいわれると、そうなのかもしれない、とおもった。お母さんのつくったお弁当はいつだっておいしかった。うさぎのりんごも入っていた。なつかしい。

卵の妙に焦げた親子丼に、伸ばす箸がとまる。雄二郎さんはちょっと緊張した面持ちで、やっぱり、おいしくないかな、ときく。椅子に座った僕を見上げる目線は大人のくせになんだか弱々しくて、僕は、わざと、ひどいことを、いった。

「今日は、ありがとうございました。でも、あんまりおいしくなかったです」
「! そ、そっ、か…」
「親子丼も、焦げてて、にがいです」
「う、ん、そうだよ、な、じゃあ、次からはやっぱり、」
「はい、次はもっと上手につくってください」
「……え?」
「次は、たぶん、九月の社会科見学ですから」

あっけにとられているようだった。見下ろしながら食べる親子丼は、ちょっと苦くて、鳥はかたくて、ご飯は妙にパサパサしていて、とても、おいしかった。

学校の行事なんてあんまり楽しみにしたことなかったけれど、夏を乗り越えた先の九月はさっきよりすこし、たのしみに、なった。



(あ、新妻さんですか? どうもお世話になっております、編集部の服部ですが、今日ですね、エイジくんが――)



++++
エイ雄習作。ていうかエイ雄なのかよくわかんね
いったいどこを目指しているんだろう
頑張って文章の練習してる人だなあこれ
でもなんか、たのしいからいいや



(2009.1129)