乾燥した冬の終わりはまだすこし元気のない、割れた土の上、その猫は座っていた。マンションの入り口を挟む形で作られた花壇の端、ときおり身づくろいしながらえらそうに、細身の白い猫。洋もいくらか混ざっているのか目は緑、爛々と光っている。目つきが鋭い。野良なのだろう。飼ったことはないがそう思った。すくなくともおっとりした性格でないのは見て取れる。視線には妙な威圧感があった。

マンションのガラスドアに手を伸ばそうとしたところで見咎められ、なんとなし気まずくて立ち尽くしていればそこに、見知った顔が向こう側からやってきた。スウェット姿の小柄な少年、僕の担当作家。右手にビニル袋提げて重いドアのあいだから顔を出し、目が合ってとまる。

「あ、」
「新妻くん、こんにちは」
「こん、にち、は? です、えーと」
「はっとり。はっとりゆうじろう」

あ! 思い出したように人差し指ピンと向けられる。新妻くんの興味の範囲はおどろくほどに狭い。そうでしたユウジロウさん、ユウジロウさん。漢字もおぼえていないのだろう、いくらかたどたどしく言いながらひょいと、ドアの隙間から新妻くんは外に出てきた。蹴上げの低い階段を二段、四段と降りてそれからぐるり身をひねり、白猫をじいっと見下ろす。くっと膝を曲げた新妻くんは猫とおなじ目線になるとずいと、ビニル袋を差し出した。

「今日は、まぐろです」

袋から取り出した猫缶カツン、レンガの上に置くとちらりと白猫は目を遣った。しかし関心ないと言いたげにプイとそらす。新妻くんは気にせずプルタブをめくってギリギリと切った。円状の蓋を開けきると、つ、と指先で猫の方に押しやってゴミだけ持って立ち上がった。パッパとほこり払って僕を振り返る。中入らないんですか、乾いた声に聞かれ僕はあわててうなずいた。

猫を飼っていたとは知らなかった。他人に興味を示すことのほとんど無い子だったが、動物になると愛着も湧くものらしい。いつからいるのと聞いたら引っ越してきた頃から見かけていると返ってきた。しかしそれぎりで、おそらく猫に向く好奇心は僕には湧かないものと見えたから予定通り連載の打ち合わせをすることにした。新妻くんは大好きな漫画の話なら会話ができた。

その日の晩飯を調達してやり、なにかあれば電話をするよう言いつけてマンションを出る頃には夕陽が差している。猫はかわらず花壇の端に座りやさぐれた目をしていたが猫缶は嘗め回したがごとくきれいに空になっていたので角を曲がったところにあるマンションのゴミ捨て場に放った。帰る道々足取りは多少軽かった。新妻くんが漫画以外のことに積極を見せたのは初めてだったので、僕はたぶん、すこし、ほっとしたのだと思う。


僕らの飼育はそれからしばらくつづいた。猫はやはり野良で、それまではそこらの残飯でも漁っていたのだろうがおそらく新妻くんがきまって餌をやるようになったせいでマンションのまわりをうろつくことが多くなった。自然、僕が帰りに猫缶を回収することも増えた。すこしずつではあったが人に懐くようすも見えてきたので新妻くんに名前をつけないのかと聞いたら僕の猫じゃないですしと振り返りもせず言った。淡々としているもんだなと思っていると、ある日ゴミ捨て場にしゃがみこんで長いこと白猫と同じ目線でみつめあっているのを目撃したので、やっぱり新妻くんなりに可愛がってはいるようだった。そのときは初夏にさしかかった陽射しがつよかったので、日射病になるよと言って近づくとすこし残念そうにしていたがおとなしく七○一にもどった。猫は新妻くんとの逢瀬を邪魔されたのを怒ったのか、かえりは姿がみえなかった。

梅雨にうつりかわり、新妻くんのCLOW騒動が起こる。家の窓や通学路、ゴミ捨て場などで見るカラスに影響を受けたとおもわれる。手のかかる子どもを連れて編集部まで行くはめになったが子どもはほとんど反省の色をみせず、マンションの前にタクシーをつけたあとも夜闇に映える白い毛玉と遊んでいた。


そうして事が起きたのは僕が連載第一話の載ったジャンプをはやく見せようと降りしきる雨も気にせず吉祥寺に駆けたときのことだった。ギミャア、悲鳴にしては奇妙な、と思ったマンションの入り口、嫌な予感がして、ここに来るたび所在を気にするあの白毛をさっと目で探したが今日はみつからない。ジャンプの入った紙袋を焦燥に握り締めたとき雨落ちの音を遮るようにガア、ガガア、すぐそばで聞こえて走り出す。

角を曲がり、通りに面したゴミ捨て場だった。白い猫に向かって啄ばむ黒、長いくちばしや鋭そうな爪が数羽、僕はカッとなり持っていた傘振り回して憐れな猫からカラスを押しのけた。漫画のヒーローみたくかっこよく撃退できればよかったのに、僕は雨道にすべって膝をしたたか打ちながら突っ込むという、なんともなさけない特攻を仕掛けるはめになってしまった。邪魔されたとわかるとカラスたちは僕にその激昂を向けようとしたがプラスチックの傘に本能的敗北を感じてくれたのか、薄着の上からいくつか引っかいたりしただけで飛び去ってくれた。猫はサッと走って逃げたが、すこし離れた街路樹の下できまり悪げに僕をみつめていた。

ゼエハア、荒い呼吸がすぐそばできこえ、ようやく自分が肩で息をしていることに気づく。あと、痛い。体中が痛い。打ち付けた膝も啄ばまれた腕も緊張に張り詰めた肺も、ぜんぶが痛い。安傘は乱暴したせいでボロボロと破れ、何本か骨も折れてしまっていた。新妻くんの新連載が表紙を飾ったジャンプはきっとコンクリートの上、紙袋の中でびしょびしょだ。なにやってるんだろう、頭に肩に背中に、こんなときでさえ降り湿る雨から逃れようとのろのろと起き上がり振り向いたところで目が合った。いつもと変わらぬスウェット姿の子ども、表情だけははっと変えて僕に走り寄ってくる。ああ、そんな顔もするんだなあ、新妻くんのビニル傘に遮られどこか遠く聞こえる雨音の中、ぼんやりとそんなことを考えていた。

風呂に入ると、幾分ましになった。擦り剥いたりしたところはやっぱり染みたけれど、すくなくとも身体の重さは楽になったし、気分もだいぶよくなった。新妻くんと色のちがうスウェットを借りて着ると多少腹が見えて涼しかったけれどびしょ濡れになった自分の服をもう一度着るよかましだった。ドライヤーを借りてかるく身づくろいしてから居間に入るとフローリングに救急箱ドンと置き、正座した新妻くんが待ち構えていたのでいささか怯んだ。新妻くんは僕の足をつかんで強引に座らせる。なんでむちゃしたですか、開口一番、語気荒く聞いてくるので、新妻くんの猫だからといえば首を横に振る。

「僕、飼ってません」
「うん、でも、新妻くんの猫だよ」
「…雄二郎さん意味わからないです」
「うん、ごめん。…たしかにちょっと、無茶だったかも」
「…心配しました」

僕はそのときたぶん、目を見開いていたとおもう。思いがけない言葉だった。新妻くんが僕を気にかけるという発想がなかった。しかし新妻くんは救急箱を開けるとやはり強引に僕の腕や足を引っ張って勝手に服をめくり、パッパと消毒液を振りまいてくる。いたいいたい、いたいよ新妻くん! あちこちの皮膚が千切れそうな感覚にじたばたするのに存外子どもの力はつよく、僕が痛がってもけっきょく離してくれなかった。そうして身体中消毒された。途中から僕の嫌がりように気をよくしたのかなぜかくすぐり合戦に発展してしまい、僕は久々に、腹の底から笑わされてしまった。

涙を拭う僕を横目に新妻くんは立ち上がる。原稿にもどるのかと思ったらそうではなく、私室に向かった新妻くんはなにか手につつんで帰って来た。しゃがみこんで細い掌をひらくとそこには赤、黄、桃、キラキラとした透明のビニルに宝物みたく包まれた色とりどりの飴がある。どれがいいですと首をかしげるので今度は僕がかしげる番だった。新妻くんがわらう。

「消毒液のあとは飴なんですよ、知らないですか」
「? うん?」
「僕より大人なのに、知らないことあるですか」
「……うん、」
「そうですか」

じゃあリンゴのやつあげます、僕一番好きですけど、あげます。そう言って新妻くんは赤いのをひとつ選んで僕の手に握らせる。きっと実家でおばあさんかお母さんがやってくれた習慣なのだろう。ぎゅ、ぎゅ、と数度にぎりしめるとくしゃくしゃのビニールの感触が指先にくすぐったかった。口に含もうかと思ったが、やめた。黄色い飴に酸っぱい顔をした新妻くんがのぞきこんでくる。(レモンか)

「雄二郎さん、飴きらいですか?」
「…ううん、なんか、溶けそうで」
「飴はとけますよ?」

ほんのすこし近づいたこの時間が溶けてしまいそうでとは、なんだか気恥ずかしくっていえない。かわりにジャンプ、びしょびしょにしちゃってごめんねとあやまった。新妻くんは首を振る。そうして大事にとっておきますというので、僕はちょっとだけ、誇らしい気持ちになった。

カッコいいクロウを描きます、新妻くんは言う。悪いカラスにはしません、きっとしません。そう言って若い漫画家は今度こそ自分の椅子に座って原稿にとりかかり始めた。

外ではカラスが鳴いている。カアカアカア、つぎはおまえの目玉をくらうぞ、カアカアカア。目玉くらいくれてやれ、そう思えるくらい、身体中をべたべたにした痛い痛いアルコールは、やさしかった。

飴玉はこれからきっと、ゆっくりとどろどろになるだろう。すっかりくたびれたそれを、いつかふたりで笑う日がくればいいと、おもう。


白猫は風の噂で怪我していたのをみつけた誰かが引き取ったときいた。以前からカラスと縄張り争いしていたのを気の毒に思っていた人がいたという。野良を見かけることはそれからめっきりなくなった。寂しくないかと新妻くんに聞いたら、僕にはユウジロウさんがいますから、なにげない顔で返された。ユウジロウって漢字で書けるか、たずねると、新妻くんは答えに詰まったのをごまかすようにお腹空きましたと話をそらした。どうやら猫のつぎは子どもの餌やりが待っていた。


+++
お読みいただきありがとうございました。

(2011.0222 @ にゃんにゃんにゃん!)