目を覚ますと春告鳥が鳴きはじめている。背中から腰にかけてがそれに返すギシギシという挨拶は非常につらいのだが二度寝すればたぶん遅刻するに違いない。しかたなくのろのろと身を起こすと、身体に残るのは決して降り積もった冬の疲れだけではないのだと思いだした。

眼下では(生意気なことに)僕んちのそれよりもゆったりどっしりとした革の高級ベッド、そしてその持ち主が満足げにすやすやと寝息を立てている。新妻くんのベッドは引っ越してきた当初、おもちゃ箱をひっくり返したようなこの部屋に見合う簡素なもので、その上にもバラバラと鉛筆やらなんやら置かれていたのだが、あるときを境に現在のひどく場ちがいなそれに変わっていた。(…まあどんなに高級な家具になったって掛け布団カバーが森のくまさんでは、あまりにあんまりなんだけど)そうしてあるときというのはつまり、僕らがこういった関係になってからということだった。

むくり、僕が床からシャツを拾ったのが伝わったのか、新妻くんがぼんやりと半目をこちらに向ける。いかにも重そうな瞼が可愛く見えて、頭を撫ぜてやると手首を掴まれ乱暴に布団の中に引き戻された。(うわっ擬態なんて! 卑怯だぞ、新妻くん!)抗議する間もなく舞い戻った暗闇の中でもみくちゃにされる。ねえ僕のこと布団か抱き枕かなにかと間違えてるんじゃないの新妻くん、言いたいのに赤んぼみたいに貪欲な唇は僕の口を朝ご飯と勘違いしているし、しなやかな全身を使って猫みたいに僕を捕獲してくるし、さらにわるいことに骨ばった手のひらは尻に回されおぼろげに僕の弱いところを掠めて揉み込んでくるではないか。なんということだ起きているときはそこはあまり触れてくれないくせにうああ気持ちいいだなんて認めない、認めないぞにいづまくん…!

なんとかもがいて悪の布団帝国を脱し再び朝日の下に顔を出す頃にはすっかり息が上がっている。拾ってきた頃の子猫はねこじゃらしにさえみゃあみゃあとじゃれついて可愛らしかったのに、気づいたときには鋭利な牙と前爪以て頭から丸呑みせんと欲す狂猫に成長してしまっていたような感じだ。高校生の頃からさして筋肉の付き方も変わらないどころか若干落ちた気がする自分の二の腕と見比べてなんともいえない心持ちになる。ようやくはっきりと覚醒した新妻くんがシーツに手をついて身を起こした。ぐしゃぐしゃのシャツ一枚なんとか纏ったよれよれの僕をからからと笑う。誰のせいだと思ってるの、口をとがらせるとすみません、夢の中だと思ってました、悪びれず言うので怒気を殺がれてしまった。というか夢の中だといつもああいうことをされているんだろうかという不安がよぎったせいもある。

シャワー借りるね、告げると、新妻くんは今度は意識あるのに僕のシャツをつかんで引き止めた。

「新妻くん?」
「……今日は、福田さんちに、泊まるですか?」
「あ…う、ん。そう、なる、かも」
「…そうですか、じゃあお客さん用シャンプー使ってください」

洗面所に小さいやつありますから、そう言って自分でつかんだくせに素っ気なく指をほどき、新妻くんはまたくまさんの布団にもぞもぞと潜った。ありがとう、乾いた返事をしてくたびれた服を拾い集め、僕は洗面所に向かった。


雄二郎さんが好きだからと言って新妻くんは僕を抱き、新妻くんの担当だからと言って僕は身体をゆるす。あくまで職務の延長に過ぎないのだと言い聞かす。(新妻くんにも、僕、自身にも)だってそうでないと認めることになってしまう。僕をまっすぐに求めるその骨ばった手が愛しくて、本当はその手をとってやりたくてしかたないのだと認めることになってしまう。何の躊躇もなくそうするには、僕はすこし年をとりすぎて、社会の常識に組み込まれすぎてしまっていた。すくなくともある日新妻くんの聞いた「担当だから僕とするなら、福田さんにも同じことさせるですか」という問いかけに、(肯定すれば新妻くんが悲しむと知っても)嘘つきにうなずいてしまう程度には。


いつもと違う匂いのシャンプーを落として栓を捻り風呂を出る。昨日と同じ服に腕を通しながら編集部での言い訳を考えた。彼女のところに泊まって、無理だ、一瞬でバレる。飲み過ぎて、だめだこれは先週も使ったきっと怪しまれる。そうだ、うっかり終電を逃したことにしよう、多少評価が下がったって困るような同僚はいないどころかああまたかで終わるだろう、よし、決まりだ。結論づけて鞄を持ち、廊下のドア越し寝室の新妻くんに次はいついつくるから原稿よろしくと言って七○一を後にする。

マンションを出ると半分濡れた髪がひやりとしたが春一番めいた風はあたたかく、僕は背筋を伸ばして通勤の波を歩き始めた。多少寒いけれど、起きてから新妻くんの家を出るまではなるべく短い方がいい。いろいろ、考えなくても済むから。

たとえばある朝去りがたく、寝室をちらりと覗いてしまったときに見た彼の涙とか、それでも好きとは言えない自分の、弱さとか。あるいは、担当と作家という立場で出会っていなかったらもしかして口実を失った僕は素直に、身の内にくすぶるこの感情を、認めてしまっていたかもしれないというくだらない、夢想とか。

彼のマンガが大好きで、その担当でいられることは僕にとってこの上ない行幸なのに、ときどきこんな仕事辞められたらと叫びたくなるほど思う。

残酷な春告鳥は今日もまた、変わらぬ季節一巡のはじまりを鳴いている。


(弱くて臆病で、きみの手さえつかめない僕に、どうか早く、飽いてほしい)



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お読みいただきありがとうございました。

(2011.0224)