週に一度新妻くんの散歩にいく。というとまるで犬みたいだが、実際はそれよりよっぽど手がかかるので一緒にしては犬に失礼だと思う。

決められたコースはなく、人間だから首輪もなく、ただただ新妻くんの行きたいところに行き、きっかり往復一時間で帰る。あるときは筋肉痛になるくらい遠く、町を二つまたぐ程行くときもあったし、マンションから三歩のところで蟻の行進を延々眺めていたこともあった。(三歩の散歩とは、これいかに)

はじまりは新妻母の定期連絡で、あの子ほっておくと部屋にこもりがちなのでたまに外に出してやってくださいねと申しつけられたこと。以来暇を見つけては連れ出すようにしている。さいわい原稿の滞ることはなかったので時間はあったし、新妻くんはお母さんの言葉には従順であったのでキリのいいところを連れ出せばそう嫌がることもなかった。

そのかわり興味対象があればすぐに飛びつく藤色の首根っこ、今日もガシリとつかんで捕獲する。雄二郎さんカラス、カラスが! ハイハイわかりました信号は守ろうね新妻くん。散歩はいつもこの調子。俺が困らず終わったためしがない。ときどきこの子は俺を困らせて楽しんでいるのだろうかと思うくらいだ。しかしそんな打算ができるような子ではないと多分一番よく知っていたので、あきらめて手のかかる散歩に毎度付き合っている。

実際外に出るといい気分転換になるようで、歩いたあとの新妻くんはいつもより集中して机に向かうことが多かった。だから仕事がはかどるならいいかという気持ちもまああった。

散歩を終えるのは大抵夕方だったから、途中のスーパーで晩のおかずを調達することが自然と多くなった。ハイ新妻くんいい子いい子待て待て待て、自販機とガチャガチャとポップコーンの仰々しい機械が並ぶ騒がしい人待ち場に子どもを座らせて単身食品売り場という名の戦場に赴く。東京の人波に怯えるいたいけな少年を見習い兵として連れるほどの非情さはさすがに持ち合わせていなかったし、なによりはぐれたときが面倒だ。

いつものようにコンビニや外食で済ませてしまえばいいと思うかもしれないが、なるべくきちんとした食事を摂らせてやりたいというのが言葉にはしない母の気持ちだろうと汲んで僕は週に一度兵士になる。脂物だって、家庭で食べるのと外で食べるのとでは腹への溜まりかたがちがうからだ。新妻くんが元気に原稿を描いてくれるなら、おばちゃんの間でもみくちゃのけちょけちょにされるくらい、たいしたことではない。たとえば(こういう例に出すのはたいへん不本意なのだが)福田くんみたいに僕がイケメンであったなら、あるいはお気に召したおばちゃんたちが簡単に精肉コーナーや野菜コーナーに通してくれたかもしれないが、普通を絵に描いて天パをかぶせた僕にそんな特殊効果は発生しないのであった。ああ、無情。高らかなタイムセールの叫びはいつだって僕に殉教を覚悟させる。なんとか免れて生還したときの新妻くんの、そのときだけは忠犬がごとく飛びついてくる笑顔のなんと眩しいことか。ハイ新妻くん袋はんぶん持ってね。

マンションにもどると三等兵から一流、(…まあその、かなりよい方に見積もって)一流シェフに華麗に転身して腕を振るう。メニューはカレーだとか炒めだとかいたってシンプルなものに限る。(だって一流とは王道をゆくものだと信じているから! 決してそれしか作れないわけでなく!)ときどき親子丼つくるとたいそう喜ぶので今日もつくってやる。

深みのあるフライパンにうすく油を敷いて火は中火、ザクッと切った玉ねぎを放り甘みの出るまでさっさと炒め、だいたいその頃にやべっと慌てて換気扇をまわす。気を取り直してひとくち大の鶏肉をまな板からフライパンに降らし、ほんのりと色の変わったころあいでどばっとめんつゆを流し込む。ついでに砂糖も指先つまんでさらっと散らす。なんだかんだ新妻くんは子どもで甘い味付けの方が好きだ。最後に卵をふたつ取り出し手早く割ってかき混ぜ、肉汁やら玉ねぎの水分やらでじゅうじゅうと匂い立つ上にざっとかける。菜箸でさっさと混ぜ、フライパンに蓋をして火を弱めた。弱火ですこし蒸すと卵がとろっと出来上がるので、僕はいつもこうしている。半熟派だからそこに関してだけはくわしくなった。

そろそろと匂いに釣られた新妻くんが音楽をとめてやってくる。音でいぶりだすのは至難の業だが嗅覚をそそられるとぽてぽて近づいてきて僕の後ろからきょときょとと眺めているので可愛いと思う。(なんだかほんとに犬みたいだな…)

椀にほかほかのご飯を盛ってフライパンからよそると白いもわもわがよりいっそう濃くなって子どもが歓声をあげる。待ちきれず居るので座って食べるんだよと言ってお箸と一緒に渡すと一文字のこらず無視してその場で食べ始めた。ため息つきながらはいはいあっちで食べようね、手近なアシスタントの椅子に座らせるともしゃもしゃとかきこんでいく。普段のチンした弁当を前にしたときとはまったくちがうこの食べっぷりを見てから、人につくるのもわるくないなと思うようになった。というか新妻くんに作ってやるのが楽しくなった。ろくろく調味料も知らないで大雑把につくる僕の料理をこんなに無邪気によろこんでくれるのだから、そりゃあ可愛いじゃないか。おかわりありますか! いつになくキラキラと光る瞳に笑い、口端の米粒を親指で拭ってやった。


それから二週はコミックスの手配やら何やらでめずらしく僕が多忙だったため散歩には連れて行ってやれなかった。とくべつ何曜日の何時と決めているわけでもないから新妻くんからなにか言ってくることはなかったけれどなんだか申し訳なくて、ようやく時間に余裕のできた半月後僕は原稿を取りに行くついでにそそくさと七○一を訪れた。

そうすると玄関開けるなりいつもとようすのちがうのに気が付いて不審に思う。(なんか…匂う?)鼻をくんとさせながら居間に通じるドアを開けるともわっとした空気が目をさした。ぱちぱちと瞬いてすぐに把握する。福田くんがすぐ左手の台所で料理をしていた。その背に張り付いて新妻くんが爪先立ちでフライパンのぞきこんでいる。ついさっきまでこの子に対してすまなく思っていたはずなのに、僕はなぜだか急にむっとして、振り返ったところに目が合ったというのに原稿もらっていくねとだけ言ってその横を通り過ぎた。雄二郎さん雄二郎さん、話しかけてくるのにも、今日はすぐ編集部もどらないといけないからと突っぱねて付き合わない。素早く十九枚拾ってそれじゃ、伸びてくる子どもの腕を振り払って半ば走り去るようにして七○一を後にした。エレベータでむしゃくしゃと閉を押しながら、なんでこんなにイライラしているんだろうと不思議に思う第三者の僕がどこかにいた。


しかし子どもはしぶとかった。エレベータと競い階段駆け下りているあいだにでも脱げたのか片足だけサンダル履いた状態で走って追っかけてくる。ちょっと! なにあれこわい! いらいらしていたのもあったがふつうに怖かったので集合玄関を走って逃げた。慌てて走られて事故にでも遭われたらやばいとなぜかこんなときまで担当意識がはたらいて車の通りの少ない方に逃げた。雄二郎さん! 強く名前を呼ばれたが逃げた。なんで逃げているのかもわからないが、逃げた。

しかし子どもは若かった。いや、若いから子どもなんだけれども。住宅街の片隅、ハアハアと膝に手をついて身を折り二の腕を新妻くんにつよく掴まれながらひとりつっこむ。なんで逃げるです、いくらか息荒くした新妻くんが僕を叱った。僕にだってわかんないよ、切れ切れに答えるとむせた。新妻くんが慌てて僕の背をさする。掌はめずらしくやさしくて、僕は泣きそうになった。(泣かないけど。大人だから。プライドだって一応あるから)

しばらくそうして呼吸をととのえて、ようやっと立ち上がると新妻くんの目はもう怒っているというより、不安な色が濃いようにみえた。(ごめんね、きみの前では僕がしっかりしていなきゃいけないのに)安心させようと頭を撫でてやると背伸びして僕の手に押し付けてきた。おちつきました? 上目に聞かれてうんとうなずくと、新妻くんはようやくほっとした顔をみせた。

「雄二郎さんなんだかかなしそうだったので、僕なにかわるいことしたかと思いました。…そうでした?」
「いや、ええっと、そうじゃなくて、…うんと、その、なんて言ったら、いいの、かな、」

戸惑うふりをしながら理由はそろそろわかっていた。僕はたぶん嫉妬したんだとおもう。あたりまえだけど、新妻くんが楽しみにする料理は僕だけがつくれるというわけではないから。おいしいおいしいと言ってほおばる笑顔を見るのは僕だけではないから。

(…………しっと?)

しばしの沈黙のあとカッと頬が熱くなった。うそだ、まさか、そんな。うそにきまってる、だれか嘘だと言ってくれ、祈るような気持ちの僕に新妻くんはふと思いだしたように、いうのだ。

「そうだ雄二郎さんいないときも雄二郎さんの親子丼食べたかったのでこっそり福田さんと研究してたですけど、卵がどうしても上手にできないです、どうやってるです?」

僕あれすごく好きですけど。なにげなく言われたことばにどうしてこんなに動転して、口のあたりの筋肉がむずむずとするんだろう。(なんだそんなに僕のつくるの、うれしいのか)ともすれば笑い出してしまいそうな唇をなんとか制して見上げる子どもに答えをかえす。

「…そういうときは、呼べばいいんだよ」
「え?」
「呼んだらいくから、だから、――俺を呼んでよ、新妻くん」
「…雄二郎さん、来るです?」
「うん、行くよ、行く、ぜったい行く」

そのときの、パアと花咲くような笑顔を見たのはきっと、僕だけだと思う。(というか僕だけだったらいいなと、思う)そうして今度は僕が新妻くんに腕をつかまれ七○一まで連行される。ふふふ、新妻くんがとなり歩きながら妙に笑うのでなんだと聞いたら雄二郎さん何回呼んでも追いかけても走って行っちゃうのでなんだか野良犬みたいでしたと言う。はっとした。(…ああ!)くそ、やられた、(うそだろこんな、サンダル片足しか履いてない年下に、)いつの間にかみえない首輪はめられていたのは俺の方だったなんて、そんな、ああ、もう、――そうだよ好きだよああ、ちくしょう!

(そこ! 負け犬の遠吠えと笑うんじゃない!)


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お読みいただきありがとうございました。
タイトルはボカロ曲より引用させていただきました。
内容と歌詞に関係はありませんが、タイトルのイメージが近かったので。
原曲もよい曲だなと思います。

(2011.0226)