居間の柱をカッターで刻んでその横に乱暴にマジックで書かれた三桁は、この家に越してきたときの新妻くんの身長である。以来数度、数センチきざみで更新されてあるときを境に書き込みは終わっている。ぼんやり眺めているとむっとした手つきでネームを渡されたので笑ってごまかして、それを読むふりをした。

新妻くんの成長は一般的な例と同じく高校の三年のときにはほとんど止まってしまった。初めの一、二年はもしかして僕を追い越す日がくるかもしれないとそわそわしたものだが結局それも単なる想像で終わった。僕と彼のあいだに在る数センチの差はいつまで経っても埋まることがない。気づいたときにはかなしい気持ちになったものだ。(僕は想像の羽根をひろげていたというのに羽根はちょきんと切られてしまった)

僕より関節半分ほど小さい手のひらにネームを数枚渡す。こことここと、ここを直してね、僕の言葉をうんうんとよく聞いて、納得した新妻くんは受け取り身軽に椅子に座って言われたとおりにする。出会った初めの頃の聞かん坊はどこかに行ってしまった。今では僕の口出しを聞いてその通りだと思えば素直に修正するようになったし、そこは譲れないと思えば折衷案を出したりもするようになった。成長だ。漫画において彼は飛躍的に日々成長を遂げている。少年ジャンプの看板を背負うに相応しいことだと思う。

その反面それ以外ももうすこし成長してくれたらと感じることは、少なくない。もうすこし、たとえば近所との付き合いを学んでくれたら、あるいはお金の使い道でも覚えてくれたら、もしくはほんのすこしでいいからその潔白を、汚してくれたら、いいのに。(これはあくまでも、個人的な希望だけれど)

できました! ニコと振り返り突き出す数枚を受け取りうんとうなずく。じゃあ何日にとりにくるから、これで描いてみてね。返すときに指先がかるく触れる。硬い指だった。ずっとペンを握っている新妻くんの手は華奢な見た目とは反対に、見るからに力強かった。そっと紙をはなす。

床に置いていたコートを持ち上げると新妻くんは玄関まで見送りにくる。一秒でも漫画に費やしていたい彼にとっては最大限の好意だ。あるときから始まったこの習慣をなぜと問えば、雄二郎さんのおかげで漫画連載できるのでカンシャです、ビシと敬礼しながら新妻くんは言った。生真面目な態度はおかしく、愛おしく、そうしてやはり、かなしかった。

いつものように見送られ、今日は帰り際に寄ったので他に行くところもない。編集部には引き返さず帰宅する。途中最寄り駅のコンビニで酒を買った。新妻くんの好む軽い酒をてきとうに何本もビニール袋に突っ込んで豆腐屋の声BGMに帰路をゆく。そうだ、新妻くんは昨年成人を迎えた。ためしにビールだのなんだの挑んでいたようだったが結局まずいといい、ジュースなんだかアルコールなんだかわからないような酒を好んで時折り飲むようになった。時折りというのは、たまに福田くんが家に訪ねてきたときとか、そのくらいだ。酔っ払うと漫画が思うように描けないのでいやだという。新妻くんらしいと思う。

反対に僕はお酒が好きだ。同僚を誘うことも多いし、ひとりでもよく飲む。飲まないとやってられないときだってある。大人だから。気が付いたら大人になってたから。

リビングの照明はひとつだけ点けてプルタブを爪で開け、ソファに座ってぐびと喉に押し込む。安酒だが僕は高級な人間ではないのでそれなりにうまく飲めた。ただしこの程度の度数では酔わないので何本も開けては空にしていく。幾筋か口端をしたたり落ちたが気にならなかった。

新妻くんは僕を慕っている。断言してもいい、僕はまちがいなく彼にとって特別だ。数年間ずっとあの手のかかる子どもの面倒を見てきたのだから雛鳥が親鳥に懐くがごとく僕は彼の庇護者になり得た。しかし、それだけだ。数年をかけて彼は僕の特別に、僕は彼の特別になったがふたつの「特別」は決して同じ意味を持たない。僕のそれは薄暗くじっとりとした、彼のそれはどこまでも清廉であたたかな「特別」まるで意味がちがう。だから僕が何日何ヶ月何年彼を思ったって、同じ思いが返ってくることはない。だって彼は自称するように永遠の少年だから。

永遠の少年だからこそ彼は無邪気に僕を慕い、そしてその思慕が欲にまみれることはない。そうして少年だからこそ、いつの日か大人に変わりゆくかもしれない可能性を永遠に孕みつづける。だから僕はその可能性をいつまでも信じつづけるしかなかった。

醜い大人はその硬い指が自分に伸びる感触を夢想してはティッシュにくるんで、ゴミ箱に捨てる。


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お読みいただきありがとうございました。

(2011.0226)