東京の冬は嫌いだと新妻くんは言う。彼が嫌悪をはっきり口にすることはあまりないので僕はすこし驚いた。新妻くんはどういうところが嫌いなのかとは言わず、ぽつぽつある街灯の下すでにいつもの擬音を口から吐き出していたから、横を歩く僕もとくべつ聞きはしなかった。神奈川で生まれ育った僕に北国の冬はわからない。けれどいつかは訪ねてみたいとは思う。新妻くんの暮らした場所には一度行ったことがあったが、時折り少年の懐かしむような雪景色はそこには広がっていなかったから。まあ、といっても寒がりだからたぶん三日と保たないと思うんだけど。

その寒がりをきっちりと手袋で覆ったはずなのに、徒歩十分のファミレスから七○一に帰るともう指先がかじかんでいた。食事をして軽く打ち合わせをしただけの短い時間だったのに、室内はすっかりしんと冷えている。靴を脱いでフローリングに上がるとぞくりと背筋を駆けるものがあった。先に上がり廊下の電気をつけた新妻くんはサンダルを脱いで裸足だというのに冷たさなどないかのようにぺたぺたと居間に走っていく。

一歩踏むごとにヒーと思いながら後を追うと、新妻くんはすでに冬の装備の半纏をはおり、暖房のスイッチを入れているところだった。さむくないの? 聞けばぴょんぴょんと飛び跳ねて、足が冷たいですという。そんな風には見えなかったけど? 僕がすっかり爪の伸びた裸足を見下ろしながら言うと、新妻くんは笑って答える。寒かったですけど、雄二郎さん早く暖房入れて欲しいだろうと思ったのでダッシュしました。ねえ新妻くん僕を泣かせてどうしたいの、なんにも出ないよ?ほんとなにも出ないよ?いや待てよあれなんかあったかな、そうだ鞄にボトルのガムがあったからそれをあげよう、僕が身に染みるようなこころの温かさにお礼しようと持っていた鞄を開けようとした手をつかまれた。

新妻くんが僕を見上げている。無言であったけれど手に込められた力と視線の意味は、つまり、その、よくわかっていて、(ていうかそうなると思ったから先にファミレスで打ち合わせをしたんだけれど、)でもいざとなるとやはり、こっぱずかしい。何回致していたって、恥ずかしいものは恥ずかしい。まっすぐに要求されて目を合わせられずにいると新妻がつま先立ちで僕の肩に触れる。

「あ、ち、ちょっと待って、」
「…お風呂なら待てないです」
「い、や、あの、…その、せめてベッドで…」

消え入りそうになる。めずらしく聞き入れてもらえたことを喜べばいいのか、寝室まで手をつないで行くあいだの沈黙に破裂しそうな頬が熱くなるのと腹から胸にかけてなんとも言えないむずがゆさがたゆたうのを嘆けばいいのか、もう、さっぱりわからない。

たとえば頑として拒めたらよかったのに、新妻くんが成人という免罪符を手に入れてからというもの流されてしまってばかりである。だいたい新妻くんがすこしずつ男っぽく、少年の名残を消してきたのがいけない。顔はいつまで経っても童のままだが目つきが変わった。ふとしたときに見せる鋭い表情など普段の新妻くんを見慣れた身としてはまるで別人のようで、ときどき空恐ろしさを感じることもある。少年は殻を破ったさなぎのようにみるみる羽根をひろげていく。その成長を間近で見るのはとても愛しく、すこし、切ない。性急だが思い遣った手つきで新妻くんが僕の胸をマットレスに倒した。僕はそれぎりぷつりと思考を閉じて、行為に沈むことにした。その方がすこしは、羞恥がすくなくなると知っていたから。



パチ、パチン、パチ、小気味いい音を立てて乳白色の爪半月が切られてゆく。手の爪はマンガを描くのにじゃまだから本人がまめに切ったが、足先は伸びたって支障ないのでときどきこうして僕が切っていた。初めに向かい合って切ろうとしたら本人が怖がったのでしかたなく新妻くんを膝にのせて二人羽織りみたくして切る。新妻くんが切ったらいいじゃんと言ったら雄二郎さんがいいですと浮かべるニコニコはやはり子どもらしく、僕は、とてもずるいなとおもった。

そういう風に使い分けられると僕はどうしていいかわからないじゃないか。凛とした表情ばかり見ていると、年上だけれどぐずぐずに甘えたいような気持ちになってしまうし、マンガ以外のことにおろおろしているのを見れば僕がまだまだ保護してやらなくてはという気持ちになる。だから僕らの付き合い方はいつでもふらふらと曖昧で、はっきりとした力関係をもたない。僕が優位に立ったと思えばすぐひっくり返され、そうかと思えばまたにこにこと甘えてくる。この不安定さが僕は、けれどけっして、嫌いではなかった。

しかし何度もやられた後でこの体勢はきついなあ、きゃっきゃと僕の膝ではしゃぐ身体、うしろから肩にあごをのせて押さえつけ、腕をうんと前に回してパチパチ切りながら思う。たしかに所作は僕にやさしくなったけれど若い新妻くんが一度で満足して僕を放すことはまずないので深夜三時、二人羽織り体勢はひどく腰につらい。あと片足だけだ頑張ろうとつかむ足をかえるとくすぐったそうに新妻くんが笑った。

「あ、ほら、暴れない暴れない、指切っちゃうよ」
「う、うう、でも、くすぐったいです」
「だーめ」

むむむとうなりながら必死に不動を保とうとしていたがもう肩がぷるぷるしている。直に触れているのでおもしろいくらいに伝わって、今度は逆に僕が笑ってしまった。雄二郎さんが笑っちゃもっと意味ないじゃないですか! 振り向いて抗議してくるのにごめんごめんとあやまり新妻くんをよいしょと抱えなおす。着なおしたスウェット越しに伝わる体温はそれでもあたたかい。新妻くんの半纏を拝借した僕よりあたたかい。冬の新妻くんはホッカイロみたいだ。ついでにぎゅうと抱き締めてみるとぐぎゃ、とヘンな音が出る。愛おしい。あったかい。ぬくぬくしてる。爪きりの手をすこし休めて大きなホッカイロをぎゅううとしていると新妻くんがぽつりと言った。

東京の冬は、冷たくて乱暴なくせに雪は降らなくて、雄二郎さんが寒い思いするから、嫌いです。

え、と聞き返すとワントーン落とした、けれど確りとした声音で新妻くんはいう。

「雄二郎さん冷たいと死んじゃいそうな気がするので、嫌いです」
「……っていうともしかして、東京の冬が嫌いなのは、僕のせいなの?」
「そうですけど」

こともなげに答えるのできゅんとした。きゅん? いや、ぎゅーーーんくらいかもしれない。とかくときめいた。抱き締めた腕にますます力をこめる。後ろから抱いていてよかった。顔の赤いのがばれなくて済む。なんだかひどくうれしくって、僕はとにかく新妻くんのよろこぶことが言いたくて、冬の溶けた先を考えては思いついた端から口にした。

「春が来たら、そうだな、まず花見に行こう、そう、上野がいい、公園の方は人が多いけど、不忍池まで行けばゆっくり見られるよ。お弁当持っていこうね。それから映画も行こう、俺観たいのあるんだ、シリーズものの洋画で新妻くん興味ないかもしれないけど、よかったら一緒に観たい、あと、ええと、どうしようかな、」

くすくすくす、新妻くんが笑うのがすぐそばできこえる。俺なんかおかしいかな? 問うと振り返らず返事があった。

「いえ雄二郎さんが楽しそうにしてるので、今ちょっとだけ好きになりました」

好きってなにが? 僕のこと?(……あっ冬が?)なんだ俺恥ずかしい勘違いしちゃったな、ひとりで慌てていると新妻くんが腹に回した僕の手を上から握る。春になったらたくさんデートしましょう。あらためてデートという言葉でくくられるとなんだか喉の奥のあたりがくすぐったい。春を待つための冷ややかな冬は、その日初めて楽しみに思えた。


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お読みいただきありがとうございました。

(2011.0301)