わかったじゃあこのAくんを亜城木くんだと考えよう、雄二郎さんは言った。僕は背筋をピン! 興味なかった数学のプリントが一転、亜城木先生の登場によってわら半紙から上質紙までグレードアップ、僕のやる気もハイパーアップ、雄二郎さんはとなりでほっとする。亜城木先生が僕との待ち合わせ場所に着くのは一体何分後か、僕はわくわくと宿題にのめりこんだ。

通知表では美術と体育は5だったけど、あとはほとんどのび太くんの目が並んでいた。そんな成績、高校入って初めてついた、1の赤、数学。勉強しなかったわけじゃなかった。ただ試験中にいいセリフが浮かんでしまったら止まらなくて解答用紙の裏面全部、足りなくなって机にも描こうとした瞬間チャイムが鳴ってしまったのだ。(グギャ! オチまであとひとコマでした!)困り果てた先生は試験休み中の宿題十枚、ちゃんと片付けることで成績におまけしてくれると言った。ついでに先生の子どもに色紙描いたら五枚に減らしてくれると言った。

そうしてただいま、宿題五枚と格闘中。僕はマンガを描くのでてきとうにやっといてくださいと言ったのにそれじゃだめだと、休日返上で来た雄二郎さんに怒られた。一応高校生なんだからこれくらいの二次関数は解けなきゃだめだよと作業机から剥がされ倉庫から持ってきた小さなちゃぶ台、フローリングに二人座って勉強する。

問い3に悩み、鼻の上で鉛筆のバランスとりながら雄二郎さん自分が高校生のとき親に宿題やってもらったことないですかと聞いたら早く解いてよと叱られた。理不尽です。国語はちょっと得意なので書けます。り、ふ、じん。プリントの端に書くとハイハイ難しい漢字書けてえらいねと乾いた声に言われた。こういう大人にはあんまりなりたくないなと僕は思った。


時計の二回りしたころ、夕方、僕たちは宿題を終えた。20ページのネーム一本より大変でしたというと雄二郎さんは苦笑していた。

トントン、プリントの角をまとめA4を軽く二つに折った雄二郎さんが僕を振り向く。

「お疲れさま、新妻くん」
「はい疲れました。でも雄二郎さんの教え方わかりやすかったですありがとうございました」
「そうかなあ?」

白状すると高校のときは数学補習常連だったんだ、雄二郎さんが言う。いたずらっ子みたいなその表情に手が、勝手に伸びた。頬に触れ床に膝ついて掠めた一瞬のやわらか、それからゆっくりと、身を離す。

そして、あ、と気がついた。(あれ、僕は、いま…?)わなわなと、震えた雄二郎さんの唇が動く。

「新妻くん、いま、僕に、」

キスした、とは、言わなかった。ただ口元を手で押さえ呆然としている。けれど僕の頭はそれ以上に混乱していた。なぜあんなこと? 問題は数学の方程式よりよっぽど難しい。

なんで、しずかに雄二郎さんが聞いた。僕は答えられない。答えがわからないからだ。僕たちただの編集と漫画家だろ、雄二郎さんが言った。ちがう、否定したいのに曖昧な感情は喉でつっかかる。帰る、雄二郎さんは立ち上がる。僕には止めることさえできない。

出て行く寸前ぽつり、背中は言った。

「新妻くんはそうじゃないかもしれないけど、僕はきみのことが好きなんだ。……中途半端にこういうの、やめてくれよ」

開け放たれたドアから流れ込む風はいくらか冷たく、国語力さえ乏しくなった僕は一人残された部屋、言葉を脳内で必死に噛み砕いていた。


ようやくはっと気がついたのはとにかく開けっ放しのドアを閉めようとのろのろ、立ち上がりドアノブに手をかけたときだ。フローリングに裸足、一滴、濡れている。鈍い僕でも想像がついた。このドアは雄二郎さんが開けたドア。(僕はなんてばかなんです、こんな形でしか気づけません)

思考がつながった瞬間僕は走り出していた。靴を履く余裕もなく鍵をかけるひまもなく、一階のエレベータを待つことも我慢できず、非常階段。

雄二郎さんはどこまで行っただろう、もし泣いていたらどうしよう、追いつけるだろうか、出て行ったラフなTシャツの背中だけ探して駅にまっしぐら。(商店街駆ける天馬、かっこわるいですけど今の僕にはお似合いです!)

走れ!(今ならきっと、まだ、)裸足痛む小石さえ踏みつけて!(頑張ってください僕のアドレナリン!)自転車蹴散らすスピードで風切って喉でうなりただ前へ!(言わなきゃいけないこと、あるです、雄二郎さん!)

ランドセル振り回す子ども、ネギを下げたおばさん、疲れ顔のおじさんの横、すり抜けて疾走して吉祥寺の駅前、横断歩道を渡りきろうとするその背を、僕は見つけた。太腿に膝ふくらはぎ、足、総動員、緑の点滅の赤に変わる前に白黒の道を越え、あと数メートルまで追いついたその背、僕は、叫んだ。

「ゆうじろっ、さん! 雄二郎さん! 待ってください雄二郎さん! 好きだったんです! はんぱ、半端なんかじゃっ、ないん、ですー!!」

人混みの中、振り返った雄二郎さんは一瞬目を見開いてそれから、くしゃりと、笑った。ほんのり赤く、染まった目元はきっと、夕陽のせいだった。


(もう僕、駅前しばらく通れないじゃないか新妻くんちも行けないね)
(ガビョッ! こ、来ないですか!)
(嘘だよこれでおあいこだろ)


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エイジフェスタ投稿作品
サイトに上げるの忘れてた^^;


(2009.1005)