R-18 嘔吐注意







うわ、気持ちわる。自分の口元を覆いながら視線をそらした。しかし無防備な耳には遠慮なく、ぐあげふとえづく喉が、びちじゃぶと流水に飲まれゆく濁音が聞こえる。目を閉じようと、指の隙間からは胃酸の混じった酸っぱい匂いがして、俺までつられそうになった。

左手で支えつながった肩は絶え間なく大きな呼吸を繰り返している。かなり、きつそう。脇の下に伸びた手でぽんぽんと軽くたたいてやると、へぶ、とかうあ、とかいう掠れた声のあいだ、よしだし、弱々しく平丸くんは俺を呼んだようだった。(うん返事はいいからはやく終わってくれ)

ざあざあと流る水音、いつ終わるだろうと途方に暮れた。


しばらくして、永久にもつづきそうだった嘔吐、たぶん胃の中身ぜんぶなくなったためにようやく終わったようだ。よろめく身体抱え起こしタオルで口、首元、散ったとしゃ物と水滴を拭ってやり、布団まで連れて行った。廊下に点々とあった汚い足跡は、あとで掃除しなければいけないだろう。ちらり横目に、最初に吐いた作業机の上を見やると原稿は幸いなことに被害は受けていなかった。透明な体液がすこし、電光に光っているだけだ。

それからふと、こんなときまで原稿を気にしている編集者の自分に気がつき呆れた。じぶんのせいでこの痩せ細った哀れな作家は吐くまでに至ったというのに。今度からプレッシャーをかけるのもほどほどにしなくては、そんなこと思いながら乱れた前髪をすいてやると、血色のわるい唇は言った。

「べつに、吉田氏のせいじゃないですからね」
「え、」

なにをいっているのだと、頬に触れた指先で問うと、平丸くんは寝返りを打ち壁際、洋服箪笥の横を顎で差した。積み重なった紺色の本の山。

「…祖母が、頻繁に見合い写真を送ってくる」

俺は一言でだいたいのあらましを知った。おばあさんも、結構な歳だろう、孫の結婚式が見たいというのはわがままではない。見ていると栗やら冬物のセーターやらを送ってもらっていて、おばあさんには可愛がられているようで、口振りから察するに平丸くんもずいぶんと慕っているらしい。無下にすることもできず、かといって恋人は五歳歳上の男ですとも言えず、困っていたにちがいない。思考めぐらせていると、シーツに投げ出していた手を持ち上げ平丸くんはじぶんの頬に載せられた俺のそれと絡めた。かさついた体温の低い皮膚が、じっとりと俺の指をなぜた。俺は問うた。…平丸くん、俺と付き合うの、面倒になった?
ぎょろり、大きな目玉を動かして平丸くんは、きっぱりと答えた。

「面倒です」

ふつうの女なら傷つき伏せるような言葉、俺は妙に嬉しく、安堵した。平丸くんの言い分があとにつづく。
吉田氏は原稿描かないとやらせてくれないし忙しいと週に一回しか来ないし、機嫌が悪いと蹴るし、だいたい、…ねえ、聞いてます?ん?ああうん、いや、のろけだなって。

「! なに言ってるんですか僕は不平不満を撒き散らしていたところです!」
「うん、そうだね」

すごくうれしそうな顔で、とは、言わない。むーむーとにらんでくるさまは、二十七のくせに、けっこう、かわいかったから。

「もう、本当に吉田氏は面倒だ、」
「君にいわれるとほめ言葉にしか聞こえないなありがとう」
「本当ですよ、僕は本当にあなたが、」

途中で切れたのは、めったにしないくせに俺からキスしたからだ。
散々吐いた口は、ちょっとだけ、匂う。軽く重ねてから、折った身を引いた。口端が持ち上がってしまうのがわかった。

「好きです、だろ?」
「っ…! ひ、卑怯、な…!」
「そんな今さらなこと、言わないでよ、俺はずるいんだ」

平丸くんを、到底手放す気なんかないくせに、面倒かなんて質問をして、その答えに自己満足を得ている。俺は、相当な卑怯者なのだ。

「気分がいい、平丸くん、セックスしよう」
「…僕いままったく体力がないんですが」
「マグロでいいよ俺が動いてやる」

カチャリ、ベルトを外しても、平丸くんはなにも言わなかった。(曾孫の顔は、しばらく、見せてあげられなさそうだね)


空っぽの腹に手をつき好き勝手腰を振ってから玉の汗浮かぶ胸に倒れ込み、俺は言った。

「あとでおかゆ、つくろうな」
「…鮭がいいです」
「うん、でも俺が梅干しがいいから、梅干しな」
「…横暴だ」
「あれ、そういうところに惚れてるんだろ?」
「あんまり調子に乗ってると、顔面向かって吐きますよ、吉田氏」
「うわきたな」
「枕を盾にするなんて!それ僕のじゃないですか!」

(うん、ごめんね!平丸くん)


(2009.1117)