(ひょっとしたらもうとっくに毒されているのかも、しれないけど)


その年最後の原稿を取りに、吉田氏がやって来た。手袋を外し黒のジャンパーをソファの背にかけると、テーブルに無造作に置いた白い紙袋を取って僕に差し出した。いくらか、水滴が散っている。雨ですか。ちょうど降りだしたところでね、吉田氏はうなずいた。受け取ってみるとほかほかとあたたかい。中華まん。パカリと手でひとかけ割って、眉をひそめてみせた。

「肉まんの方が好きだって、言ったじゃありませんか」

そうだっけ、吉田氏はとぼける。僕は不満げに、やわらかくしろく匂い立つ、あんまんをぱくり頬張った。じわり、冬の空きっ腹にはひどく甘い。

実際のところ、小さい頃からあんまんは好きだった。甘いものはそれほど好まないが、たまに遊びに行った祖母の家、おやつにとしわくちゃの手がくれたあんまんととうもろこしはよく食べていた。逆に、中華まんとは甘いものだすりこまれていたから肉まんはすこし苦手だった。このほんわりとした生地の中に豚肉を詰め込もうという考えが理解できない。前の家に住んでいたころ吉田氏は一度近くのコンビニの肉まんを買ってきたがそれからは持ってこなかった。たぶん、ばれている。いとも容易く理解されてしまうのが癪だから、僕はいつだってわざと、肉まんの方が好きだと主張した。所謂、決まり文句。

甘味にかぶりつき、指にへばりつく薄皮を舐めながらのそのそと原稿を描く。今週は終わったら、年も終わりだから吉田氏がちょっと立派なレストランに連れて行ってくれるらしい。吉田氏の口約束だから信用はできない。でも、吉田氏が僕に提示する条件をかんがえているときの表情はきらいではなかったから、僕はいつも、騙されたふりをしてやった。(それに、僕が騙されてやるとしめしめと機嫌よさそうに口角持ち上げるさまは、三十路のくせに、ちょっと、かわいい)いまも背後のソファにどっかり座って満悦の表情浮かべているだろう吉田氏に問う。

「レストランって、どこのですか」
「うん? ああうん、ここから電車で十分くらいかな」
「ふうん、」

てきとうにあいづちを打って、ラッコの鉄拳を描いた。ぶどう糖はさすが脳の栄養である。筆はさっきよりもさくさくと進んだ。(べつに、吉田氏が来たからとか、そういうわけでは、ない)

引っ越して三週間ほど、ようやく新しい駅からの逃亡にも慣れたころだった。四つの線路が通る便利な街。路線図とはすっかりいい友人である。(…ポルシェは、事故ったし)インスタントの紅茶、喉に流し込んでちらりと横目でうかがうと、吉田氏は手帳をひらいてなにやら予定を確認しているようだった。僕には意識がむかっていない。口元が勝手に持ち上がった。やすやすと僕を理解してみせる普段のしかえしに、今日は僕が核心をついてやろうと思ったのだ。

「この家って、吉田氏の家まで電車で一本ですよね」

暫く、返事はない。次のコマに手が移ったところでようやくのろのろと、吉田氏はありきたりな建前を口にする。

「…担当が来やすい方が、作家にとってもいいだろ」
「はあ、僕にとってはよくありませんけどね」
「ま、たしかに平丸くんに喜ばれても気持ちわるいな」
「ははは、ちがいない。…それにしても、前より遅くまでいるようになりましたね」
「無駄口たたいてないで、さっさと描きなよ平丸くん」

はぐらかされた。吉田氏は、ずるい大人だ。あんまんに例えるならきっとあんこでいたいのだ。皮に覆われていて、食べるまで中身がわからない。むりやりに食べてしまっても、いいけど、火傷が怖くて僕はまだ、手を出していない。

きれいに食べ終えた中華まんを包んでいた白紙、丸めて足元のごみ箱に放り捨てた。

「吉田氏、レストランにという話でしたけど、」
「? どうかしたのかい、…ああ、いっておくけど嘘じゃないよ、今回はね、」
「いえけっこうです」
「え、」
「満腹で行っても無駄になるだけだ。さむいし、出るの、億劫だし」
「…そう、俺は別に、かまわないけど」

さして興味なさげに、吉田氏は了承した。パタン、手帳を閉じた音がする。あとどれくらいで終わるの、担当は聞いた。

「あと、すこし描き足すだけだから、もうすこしですよ」
「君にしてはがんばったじゃないか、まだ一日余裕があるってのに」
「じゃあ今日は、うちに泊まりますか」
「…どうして、そうなるんだよ」
「さっきから聞こえているの、雨の音でしょ、外、ひどいはずだ」

のらりくらりとかえってきた返事は、いいよという意味の、考えておくよ、だった。その返事がききたくてレストランをことわったことには、おそらく、吉田氏も、気がついていた。触れないのは、たぶん、まんざらでもなかったからなのだろう。しだいに強さを増す雨音だけが室内には響いていた。


(舌先で触れた熱さに毒される日は、たぶんそう、とおくない)

(2009.1127)