※注:吉田氏に奥さんがいます。子どももいます





その日のことは、よく、記憶している。
新しいマンションでむかえた初めての夏、西日は焼き尽くすように熱かったから、カーテンは締め切って冷房をガンガンに効かせて、シャツの袖は手首まで下ろして作業をしていた。背後から当たる直接的な冷気に時おり苛立っては乱暴にエアコンを切り、にじむ暑さが気になってくるとつける動作をただ、繰り返して。

しかしたびたびリモコンに伸びる僕の手よりもその日、落ち着きのなかったのはうしろのソファで何度も足を組みかえる、吉田氏だった。突然立ち上がりうろうろと歩いてみたり、麦茶をむだに何杯も飲んでみたり、とかく、そわそわしている。僕はそれを横目に見ながら黙々と、原稿を描くふりをしていた。担当がそんなようすじゃ僕だって、気が入らなかったのだ。

そうしてようやく、電話は鳴った。振動音ではなく、聞いたことのあるクラシックの着信音。わざわざマナーモードを切っておいたらしかった。慌てて取り落としそうになりながら、携帯抱えて吉田氏はばたばたと廊下に出て行った。ドアを閉めるまぎわ聞こえた声はいっそおかしいほどに、上ずっていた。パタンと閉められたドアのあと、僕はふらりと、力を抜いた。高級な革の背もたれは泣きたくなるほど心地よく、そして無機質だった。

そのあとはひどく早かった。吉田氏は鞄を抱えると帰るとひとこと言い残し、そして一度ふりかえり、明日までに終わらせとけよ! つけくわえ、今度こそ去っていった。途中でもつれて転んだのか、ぎゃっという悲鳴が居間まで響いた。あの冷静な吉田氏がうろたえるようすはひどく可笑しく、そしてその理由を想像するのはとても、とても、かなしかった。

吉田氏は父親になったのだ。大学で知り合って数年、順調なお付き合いをした結果に結婚して、そうしてその女性とのあいだに子どもが生まれた。生まれたと本人に直接聞いたわけではないが数週間前から画数の本やら育児関連の専門書やらを小難しい顔して読んでいたから薄々はわかっていた。その上で今日のあの慌てよう、なんと、わかりやすいのだろう。(奥さんもきっと予想がついていたから、病院には来るなと言ったのだろう、勝手な、憶測だけれど)

おそらく明日には、めずらしく機嫌のいい顔をして原稿はできたかいと甘ったれた声で聞きにくるのだろう。そうして19ページをチェックしたあとおもむろに携帯でもひらいて、じつはね、とはじまるのだろう。じぶんが僕から、どんな目で見られているかも、知らずに。

僕は既婚の、(ああ、ちがう、)今や妻子持ちの男にどっぷりと、惚れていた。愚かなことである。禁忌とかタブーとかそういったものをぜんぶ詰め込むときっと、僕の気持ちになる。仕事だからと接する担当をすこしでもそばに置こうと面倒かける漫画家、なんと、たちのわるい。失笑。

せめてものつぐないと祝いの気持ちでもあったのか、原稿はその日のうちに終わった。アシスタントを帰したあとは、どうしていいかわからなくて、食欲もなくて、眠ってみようかと思って部屋の電気を消してソファに横になっていた。目をつむっていたのに不思議と寝付けなかった。原稿明けで疲れていたはずなのに。しばらく経ってから、僕は、動揺していたのだと、わかった。流る、流る、思考の奔流に絡めとられ、戸惑っていたのだ。

冷たい部屋でただ握り締めた掌が汗ばみ、湿っていたのを、鮮明に、覚えている。



予感はしていたがいよいよ子どもが生まれたと知って僕は、いったいどうなるのだろうと思っていた。嫉妬するだろうか。ベビーカー押す女性を妬ましいきもちで見るようになるだろうか。そんなことを考えていた。しかし実際にはなにも、かわらなかった。吉田氏はうれしそうに携帯の待ち受けを見せてきたけれど、赤い子どもをみてもありきたりに憎しみの湧くようなこともなければ、突き落とされるよな痛みを感じることもなかった。泣くことも喚くことも、なかった。

一方で吉田氏はなるべく早めに家に帰ることが増えた。夜泣きがひどいのだという。また赤ん坊とはすぐに熱を出すものらしく、心配げにたびたび家庭に電話をかけていた。僕はそんな姿を、なんだか不思議な気持ちで見ていた。いっ憎めたらよかったのにと、何度かおもった。奥さんを刺したいとか、昼ドラみたく、思えたらよかったのに、時おり吉田氏のパスケースからのぞく彼女と、あたらしく差し込まれた子どもの小さな写真を見てもただ、幸せそうだなと、感じるだけだった。このあまりの動じなさに、もしかして僕は吉田氏のことなどなんとも思っていないんじゃなかろうかという思いに至ったのだが、どうやらそういうわけでもないらしかった。


秋のはじめに、吉田氏が久々に泊り込んだ。季節の変わり目に僕が風邪を引いたせいで、原稿がいつもよりずうっと、ギリギリになってしまったのだ。印刷所へ向かうタクシーの中、血眼で最後の仕上げをし、ふたり並んでしばらく怒られて、へとへとになって、マンションまで帰ってきた。終電はまだあったのに、吉田氏は風邪を引いたばかりの僕をひとりで残していくわけにはいかないからと、自宅に言った。そうして僕の口に栄養剤やらビタミンやらを放り込んで、倒れるように寝た。僕もすぐに、意識を失った。

次の朝起きたときにはまだ吉田氏は、床で眠っていた。そういえばどっちがベッドを使ってどっちがソファだとかそういう話をしているうちに、眠ってしまったような気がするなと、思いながら布団を持ってきて、かけてやった。(あげくに、ふたりで居間の床で眠っていたのだから、まぬけである)それがいけなかった。かいま見えた寝顔に僕は、触れたいと、思ってしまったのだ。触れたい、手を伸ばしたい、ほどよく日に焼けたその肌はどんな感触がするのだろう、洗っていない顔だから多少、皮脂が浮かんでいるかも、けれどそれさえ、欲していた。床に流れる黒髪も、すべらかなひたいも、短い睫毛も、かすかな寝息でさえも、欲しかった。

ごくりと唾を飲んで、不埒な僕の指がおそるおそる、その皮膚に触れようとした瞬間、ヴヴヴヴヴ、テーブルに置かれていた携帯が鳴動した。響く音に飛び上がり、薄暗かった部屋に突如差した青光に目をしばたたかせながら、吉田氏のそれに手を伸ばす。規則ただしく三回震えたそれは、僕の手の中でふっと止まった。背面の小さなディスプレイに表示されていた名前は、何度も聞いた奥さんの、それだった。サァッと血の気が引き、現実に強制送還される。もぞもぞと布団の下から伸びた手に、携帯は、渡してやった。

電話が鳴らなければ、おそらくあのまま、触れていたにちがいない。欲望にまみれた手でなにも知らない吉田氏の頬に。思考の停止するほどのあの衝動は、恋だといって差し支えないとおもう。


しかしちっぽけな恋には進展などひとつもない。僕を釣るための餌として吉田氏の持ってくる見合い写真に食いつくふりをしながら、日々は淡々と過ぎていく。(だって目に入るわけがない、僕は写真ではなくその写真をつかむ手の先ばかりみているのだから)

成人男性らしく、時おり、無性にむらむらして自慰におよぶことはあったが吉田氏のいやらしい顔は想像するのがむずかしくて、僕の犯す吉田氏はいつだって仏頂面で、マグロだった。それでも興奮して達してしまうのだから、僕ってやつは、よっぽど単純な頭のつくりなのだなあとつくづく思ったものだった。

かまって欲しくて週に一度、二度、逃亡してみたり、ごめんなさいと思いながらそういうことのおかずにしてみたり、僕の恋なんて所詮、そのていどである。嗚呼なんと、微笑ましいことだろうか。だったらこんな感情さっさとなくなってくれたらいいのにと、思うがなかなかそうも、いかないのであった。



そんな行き場のない思いを抱えていた冬のおわり、僕は、吉田氏の子どもに会った。三月の下旬、桜のさらさらと舞い始めたあたたかな日に、吉田家の花見に同席したのだ。僕は最初いいと遠慮したのだが、吉田氏の奥さんが、僕に会ってみたいと言ったらしい。日ごろ伝え聞いている僕のようすに興味を持っていたのだそうだ。奥さんは吉田氏の鶴である。そして吉田氏は僕の鶴である。華麗なる鶴の伝言ゲーム。かくして僕は穏やかな河川敷のブルーシートにほいほいとおびき出されたわけである。

人の多い休日の夜などとはちがって、平日の昼間はさすがに花見客も少なく、落ち着いていた。僕らはゆっくりと、そよぐ青草の声を、流る川のせせらぎを、そして花ひらいた桜の控えめな微笑を、愉しんでいた。

奥さんは初対面であったが明るい人で、皿に料理をとったり、話題を振ってくれたりと、親切にしてくれた。段重ねのお弁当は和食が彩りよく敷き詰められ、どれを食べてもおいしかった。ふわり風に乗り、卵焼きといっしょに噛んでしまった桜の花びらさえも、甘さを引き立てるような気がした。

そしてとうとう、そのときが来た。奥さんの腕に抱かれもごもごと離乳食を食べていた幼子と僕の、邂逅。

さわってみる? 奥さんが無垢な瞳で聞いた。吉田氏は嫁入り前の娘に、と親ばかをひけらかしたが僕は、気がつくとうなずいていた。

生まれて八ヶ月、小さな小さな赤ん坊。女の子らしくピンクのお洋服を着せられ、リラックマのよだれかけを巻かれている。すこしずつ伸びはじめた色素の薄い髪は風にゆらめき、ぐるんと丸い目は、興味深げに僕を見つめていた。ふしぎだった。むぐむぐとうごめく薄桃色の唇を、見るからにやわらかそうなほっぺたを、しろい小さな手足を、僕は純粋に、いとおしいと、おもったのだ。僕の惚れた、吉田氏の子どもなのに。おぼつかないやわやわとした指に触れてみてはっと、僕のかさついた指で傷ついてしまわないだろうかと、不安になって引っ込める。抱きかかえていた奥さんはそんなにびくびくしなくても大丈夫よと、あっけらかんとした顔でわらった。もう一度、伸ばしてみると、今度は中指をつかまれた! ぎょっとして固まっていると赤ん坊はひどくおかしそうに、キャッキャとわらってみせた。八ヶ月に笑われた二十八歳。(………)

どうやら子どもは僕がお気に召したらしく、母親の手を離れて僕と遊びたがった。これがもう、とにかく、寄ってくる。だあだあとさわりたがり、舐めたがり、頬を擦り付けたがるのだ。最初はどうしていいかと戸惑っていたがだんだん要領を得てきて、遊んでやっているうちに僕は「たかいたかい」まで、できるようになった。奥さんはうれしそうに微笑み、吉田氏は娘をとられてぶすっとした顔をしていた。赤ん坊は、キャッキャキャッキャと、わらっていた。やさしいやさしい、お花見の日。


それからしばしば僕は、吉田家の行事に付き合わされるようになった。娘、「ゆきみちゃん」が、僕が行くとひどくよろこぶからだ。親戚のおじさんみたいな認識なのだろう。あいかわらず原稿に追われ毎日は忙しかったが、呼ばれれば都合をつけて、付き合った。七夕、お誕生日会、クリスマス、豆まき、エトセトラ。ことばを覚えたゆきみちゃんが最初に発したのが、「ひらまるくん」だったのは、今でも吉田家の笑い話である。ひらまるくん、ひらまるくん、あどけない口調で呼ばれる名前はなんだか僕のそれじゃないみたいで、へんな気持ちだった。

大きくなってきてからは七五三や、幼稚園の入園式にも同席した。だんだんとゆきみちゃんのお誕生日のたびに一年の過ぎたのを知るようになり、プレゼントを選ぶのも迷うようになった。吉田氏の子どもを、僕は吉田氏を好くのとおなじように、好いていたのだった。そうしておなじように、奥さんのことも、好いていたのだった。

けれどおかしかったのは、ゆきみちゃんの初恋の相手が、僕であったことである。

「大きくなったらおとうさんのおよめさんになるの」ではなく、「大きくなったらひらまるくんのおよめさんになるの!」を聞いた吉田氏はそれからしばらく僕と、まともに口を利いてくれなかった。まったく八つ当たりもはなはだしい。(僕の気も、しらずにね)

家を訪れるたび、「きょうはとまっていくの? ねえねえとまってってよ、それがいいよ」だとか、「ひらまるくんのマンガよんで! かんじがむずかしくってよめないんだもの」だとかわがままを言ってくるその娘は反対に、とても、愛らしかった。(まあそれも、幼稚園の年長さんまでの話である。きりん組で一緒になったゆうすけくんに、将来の夫の座はいともかんたんに、奪われてしまったのであった。無常、無常)


月日は流れ、季節はめぐる。
数年の付き合いで僕はすっかり、吉田家のノリスケになっていたがそれでも、吉田氏を思う気持ちに変わりはなかった。歳のせいかむらむらと襲い掛かりそうになることは減ったがそれでも逃亡癖のおさまることはなかったし、そばにいるとうれしくて、切羽詰っているとたまにつくってくれる手料理などしあわせで、ただ、ただ、好きだった。

実家からいい加減に身を固めろという電話も再三あったが、僕のいつまでもあいまいな返事に、どうやら両親もあきらめはじめたらしかった。愉快である。


この前久々に、吉田氏と一緒に飲みに行った。二十代のころは頻繁に、安い居酒屋やら洒落たバーやらを試してみたものだが、最近ではもう近場の、狭い、個人の飲み屋に落ち着いた。寡黙な主人の経営する飲み屋街の一角の店。両手を広げれば端から端に届くくらいのカウンターと、テーブル席が三つだけある飲み屋。なにがいいって、酒がとにかく美味いものしか置いてないことと、壁一面の水槽、ひらひらと泳ぐ魚のうつくしいこと。僕らはきまって奥のテーブル席に座る。しっとりした照明の場所、落ち着くのだ。

いつもどおりのお通しからはじまり、てきとうなつまみを二、三頼んでちびちびと酒を飲み、ほどよく回ってきたところで僕はふと、話してみようか、という気になった。その日は機嫌がよかった。次の連載の決まった祝いに飲んでいたからだ。グラスを置いて、ねえ、と話しかける。いくらか残る理性のためらいはあったけれど、いいや、言ってしまえ、口をひらく。

「僕があなたのこと、好きだったって、知ってますか」

吉田氏は一瞬、箸を震わせた。それから眉根に皺寄せ、く、と唇持ち上げる。あきらめたような、微笑だった。

「…知ってるよ、」

ああ、そうだったのか。僕はやっぱり、わかりやすいやつなのだなあ。妙な感慨を覚える。吉田氏は知っていたのか、そうか。気持ち悪いと切り捨てず、よくも付き合ってくれたものだ。僕はわらう。すみませんと、僕はあやまったが吉田氏はゆるゆると首を横に振った。細い目にはおだやかな青いひかりが反射してひらひらと泳いでいる。ああ、やっぱり好きだなあとおもった。(…そうか、)子どもが生まれたとしっても僕が憎む気持ちになれなかったのは、きっと、なにがあってもこの人を好きだとおもうきもちにかわりはないと、わかっていたからなのだ。ようやく、気がついた。

「吉田氏、…吉田氏、ごめんなさい。僕はやっぱり一生、あなたが好きなのです」

…そう。吉田氏はひとつうなずいただけだった。それからしばらくゆったりと酒を飲み、グラスの空いて、帰ろうかと、吉田氏は立ち上がった。行儀悪く噛んでいた氷を飲み込んで、僕もつづく。財布から数枚抜いて、釣りをてきとうにポケットにつっこんでジャラジャラ言わせながら、店を後にする。一歩出て、冬めいてきた夜にぶるりと震えた。そういえば出会ったのもこれくらいの季節だったなと、ぼんやり思い出す。あのころ吉田氏はまだやさしくて、今みたいに般若のような顔をすることもなくて、でも、どこか、他人行儀だった。締め切りが近づけば絶対零度を醸し、飲みに行けば愚痴もいう、いまの吉田氏の方が僕は好きだ。

交差点赤信号に立ち止まる。足がふらついた。すこし飲みすぎてしまっただろうか。横に立つ吉田氏はこちらを見ずにぽつりとつぶやいた。

「若いころね、飲みに行くたび、きみが酒の勢いに負けてくれたらって、おもっていたよ」

どういうことだろうか。酔ったあたまでは、ろくろく、わからない。…わかりたく、ない。焦った呼吸をひとつすると、吉田氏はもういつもの吉田氏にもどっていた。振り向いた穏やかな笑顔でいう。

「今年もクリスマス会やるからきみ、ちゃんと予定空けておくんだよ。奥さんが張り切っているからね」

はい、返事をして、僕ははじめて、泣いた。涙がはらはらとあふれて、とまらなかった。前をあるく吉田氏は、夜闇のせいで、気づかないふりをしていた。僕はもしかしてようやく憎らしい気持ちになれたのだろうかとおもった。しかしよく考えて、やはりちがうとわかった。(たぶん、うれしかったのだ、ただ、純粋に)

積もりはじめた冬はしんと寒くて、乾いていた。その夜は東京のくせに星がきれいで、ほんとうに、きれいで、僕は星がうつくしいから泣いているのだと、そう、思い込むことにした。




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ストラタからの便りそのいち 笑
久々にしっかり書いてみた。
結局これが、私の思う、平吉の正解です。
不倫してたってなんだっていいけど、でもたぶんこれが一番納得がいくんだ。
奥さんを悲しませる平丸であってほしくないし、吉田氏であってほしくない。
×をつけるのもためらうような話だけど、私はこの関係のふたりが一番好き。
読んで、なにかしら思うところのある人がいたのなら、うれしい。


(2009.1220)