それは、きまって朝の四時前後。その時間になるとほとんどの場合、僕は机の上から二番目の引出しをひいて鉛筆を持つ。アシスタントは仮眠室で寝ている時間で、たまに背後のソファで担当編集が身体をまるめ寝息を立てていることもある。そのさらにうしろ、薄く開いたカーテンのあいだからやわらかな明けのひかりを背に受け、遠く鳥の寝ぼけた声を聞きながら僕は手紙を書く。

書き出しは日によってちがった。先日あなたが言っていた話ですが、僕は今日どこそこに行ってあれこれをしました、昨日の夕飯はこうこうこうでした次はこうしてください。自慢じゃないが人に宛てた文を書くのは苦手で、読み返すとたまにただの日記になっていることもある僕の手紙は、しかし、定型の一文ではじまったことが一度もない。

『お元気ですか』

僕はそのことばを使わない。なぜって宛先はたいてい目と鼻の先、いや、うしろだから…うなじとつむじの先? わからない、とかく手を伸ばせばうっかり届いてしまいそうな距離にいるのだから聞くのはばからしいと思うからだ。ときにはいい夢でも見ているのかすこし満足げに、しかしだいたいの場合は平時とかわらず眉根に皺を寄せて眠っている僕の担当、吉田氏こそ、僕の手紙の向かう先だった。

おかしなはなしだと自分でもわかっている。三十過ぎて、こんな時間にいつもいつも、おなじく三十路の男相手に手紙を書き連ねる僕、だれかに知れればカウンセリング行きは間違いないだろう。(そりゃ美人カウンセラーのカウンセリングなら一度くらいは受けてみたい気もするけれど、…ごほん)だから手紙は一通も出さない。書き終えるとフーと一度眺めてそれで満足し、今度は一番上の引き出しに入れて鍵をしめる。それからおおきく伸びをして、寝室に向かうのも面倒でそのまま机に頬を載せて寝るのが僕の早朝だった。(名誉のため言っておくが、起きだしてきた吉田氏がため息をつきながら僕の肩に毛布をかけるのを待っているわけではない。断じてない。……本当ですからね!)

そのサイクルはよほど切羽詰った〆切の前でなければ僕の生活習慣にきっちりと組み込まれていたが、だからといって意識的に日課としていたわけではない。一度書くことを始めたらなんだか勝手にそうなったのだ。言葉にすると自分の異常性をみずから立証しているようで腹が立つのだが、その、つまり、ああ好きだなと思ったときだけ手紙を書くようにしている。その頻度がたまたま週五日であるとか、六日であるとか、それだけの話なのだ。(それもう毎日じゃないかとか言ったの誰だ、言っておくが週五、六日だ、毎日とのあいだには大きな差があるのだ、覚えておくように)

吉田氏は、(自分で言うのもなんだが、)僕の行動をおそらく僕よりも正確に把握していたが、絶対にこの手紙のことだけは知らなかった。なにが入っているのかと引出しを気にしたことはあれど、そのたび某美人漫画家の写真です云々とごまかしてきたし、わざわざそれを強調するように下の引き出しに写真を挟んでおいたこともある。僕は吉田氏にだけはなんでもかんでも開けっぴろげにしてきた(というか勝手に知られた)が、このことだけは知られるわけにいかなかった。

だってそんなの恥ずかしいし、くやしいじゃないか。書き溜めた感情は一枚ずつ積み重なっていつの頃からか引出しを開閉するのにコツがいるようになってしまった。白い便箋に連なった僕の汚い字は二十行分の重みを持ち、それは引き出しの底だけでなく僕のこころの奥底にもずしりと沈むようになってしまった。これじゃまるですっごく好きみたいで、…くやしいじゃないか。

奥さんがいるから、読めば皺の寄った眉間がもっと皺くちゃになるから、きっと吉田氏を苦しめることになるから、だから手紙を出さないというわけでは、ない。僕はあくまで僕の勝手な都合で彼に手紙をわたさないだけだ。(…なんですか、本当ですよ。……本当ですったら! 僕にそんな思い遣るような気持ち、あるわけ、ないでしょ…)


そうして今日も、三種類目となった便箋を取り出して鉛筆を握る。

きっと、書くのを止めれば僕はこれ以上この感情を育てなくて済むのだろう、そうできたらいいと数日やめたこともあったがそれはやはり禁煙のように僕にストレスを与え、けっきょくすぐに挫折した。そのときに墓まで持っていく覚悟を決めた。語彙の少ない稚拙な手紙はまた一枚増える。

本当は、突然目を覚ました吉田氏に、なにしてるの平丸くん、いつものあの人を小ばかにした腹の立つ声音で聞いてほしかった。そうして全部をぶちまけられたらどんなにか、よかっただろう。吉田氏は引いたような困ったような、でも最後にはきっと泣きそうな顔をするだろう。そして僕は一方的な開放感と満足を得、彼を苦しめたあまやかな罪悪感を背負って生きていくだろう。しかしそれは叶わないことと知っている。吉田氏はおどろくほど寝つきがいい。本当に、子どもかとおもうほどしっかり寝る。午前二時前後まで僕をいたぶり励まし、またいたぶったあと、じゃあ起きたときには完成原稿たのしみにしているからと言って寝る。一度寝付くと四時間ていどは起きない。絶対だ。僕の凶悪な願いがかなうことは、だから、ずうっと、ありえないのだ。

だが、半面それもまた僕のしあわせだった。吉田氏は自分の安心できる場所でないとぐっすり眠ったりしない。僕の家でだって、眠っている姿を見せるまで数年はかかった。そんな吉田氏が僕のそばでならゆっくりと眠っていられる、やわらかな寝息を立てている、ただそれだけで、僕はほんとうに、手紙何十枚分でも足りないくらいいとおしくて、ただただ尊くて、しあわせなのだ。


もうすぐ朝陽が昇る。
最後の一文を書き終え、点々と染みのついた便箋を一番上の引き出しにしまって、鍵をかけた。おおきくひとつ伸びをする。

起きたら一番に、いつまで寝てるんだいと眉根に皺寄せたあの顔に、会いたい。




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スパコミであんまり嬉しかったから
よかった、ほんとに
ところでIEから火狐ユーザーになりました


(2010.1011)