正座をこれほど苦でなく感じたのは初めてだ。もうすぐ壁掛け時計が三周する四畳半、うつむき腿に拳を置いて思う。布団一枚だけがぽんと敷かれたほとんど堅い畳の上、ふくらはぎが苦しくないわけではなかった、ただその場の沈黙がそれ以上につらかっただけだ。

ちらちらと時計を見ていたのだからわかるが、向かい合って膝つきあわせた僕らはもうかれこれ三十分ちかくはこのままでいる。極限状態の中、上目にこそり見やれば吉田氏など今や無我の境地に達し、悟りを開かんとしているかのような表情をしていた。ちがう意味でこちらの視線を悟られる前にまた握り締めた拳にもどす。壁掛け時計だけがやけにうるさく丑三つ時の部屋に響いた。カチカチカチ。規則ただしく前進する時間をすこし元にもどすと、僕らの沈黙の理由にたどりつく。

二十時過ぎ、早々に仕事を切り上げて二○一にやってきた吉田氏は夕飯ののこりを食べ、食器を洗い終えるなりコホン、やけにかしこまって僕に言った。平丸くん、お風呂、貸してくれる? 寝転んでえびせんバリバリしながら尻を掻いてた僕にはまさに寝耳に水、おもわず口に含んだ一枚バキリ、畳に情けなく落としてしまった。あっけにとられほとんど重力に従ってうなずいていなければこんな事態にはならなかったのだろうかと思うとあの時に帰りたい。

しかし情もへったくれもなく時計はすすみ、気がついたときには吉田氏が濡れた髪にシャツと首のタオル一枚、決まりわるげに「パンツ貸して」そっぽ向きながら僕に言っているところであった。むりですよ入らない入らない、慌てて首を振って近所のコンビニ突っ走り、男物のワンサイズ上の下着とそれからまあその、用品をそそくさと買って家にもどる。くたびれたシャツと押入から引っ張り出したジャージ姿の吉田氏はなんだかまぬけでちょっと笑ったがそれも束の間、夜も更けたので「そろそろ寝ようか」吉田氏のためらいを含んだひとことで僕の笑いは凍りついた。

四畳半は狭く、作業机の脚をたたんでぎりぎりスペースをつくっても男ふたりにはすこし息苦しい。当然二人分の布団など敷けるはずもない。一組の布団を敷いて僕らはどちらからともなく正座した。よくテレビの大奥などでふたり手を取り合い、際どさスレスレを保った画面に移行していくが僕らもそうであったなら、どんなにか楽だっただろう。少なくとも女優、俳優よりは緊張していた僕は吉田氏の膝に載った手を取るどころか思いきりたたいてしまったし、吉田氏は吉田氏でいつになく肩震わせておどろき、ぎこちない笑顔で痛いなあ平丸くんハハハ、他の国の言葉のように言う始末。

まあつまり、僕らが付き合い出して初めてそういう行為に及ぼうとした日だったんである。いい年したおっさん(吉田氏のことだ)と恋愛経験豊富なイケメン(これはもちろん僕のこと)であったがさすがに男同士で事に及ぼう日がくるとは夢にも思っちゃいなかった、そりゃ、びびる。男女であれば自分がリードする以外の考えもないので簡単なのだが、いかんせん相手も男である。

ぶっちゃけた話、どっちが上だか下だかで揉めたということだ。そしてその問題に直面することをお互いうすうすわかっていたから今日までその日が延び延びになっていた、そういうことだ。

議論は紛糾した。吉田氏は体格を理由にみずからの優位を主張したのに対し僕がプライドという薄い武器で応戦し、「上の方がなんだか積極的に事に及びたがっているようにきこえるではありませんか!」最後の聖剣で吉田氏に打ち勝ったところまではよかった。わかったよ平丸くん俺も男だ好きにしろ、そう言われたのが約一時間前、しかし僕らは未だまぬけに正座をしたままである。なぜなら最後のひとことを口にしてしまったがため途端に僕が恥ずかしくなってしまったからだ。自爆である。僕は吉田氏を看破するとともに自らをもノックアウトしてしまったというわけだ、嗚呼。

巻き戻しアンド二倍速再生から通常再生にもどった部屋ではあいかわらず時計の音だけが大きく、僕らを圧迫せしめんと毒づいている。僕はまだ勇気を持てないまま、時計はとうとう三時をまわった。するとどうしたことか、さっきまで頭の中いろいろとシミュレーションをしていたのに靄がかかったようにぼんやりとしてくる。あれ、おかしいな、考えてしばらく経って、ああ、眠いのだと気がついた。だめだだめだ、慌てて顔を上げると反対に吉田氏の首がこくり、下を向いた。…おや?

「吉田氏、もしかして、ねむ「っ!ねむいとか、そういうんじゃないからね!」

吉田氏がはっとして居住まいを正す。しかし両目に力を入れているのは見え見えで、やはりすぐにその首はこくこくいいはじめた。僕はそんな姿をすこしだけ笑って、しかし仕事に疲れている吉田氏にはそれを睨み返す力もなくて、だから僕はそっと、僕より一回り大きな身体を抱きしめて眠ることにした。吉田氏はねてないよ、ねてないんだからね、ふにゃふにゃと覚束なく耳元で言っていて、僕はようやく吉田氏を抱きたくなってしまい、すこしばかり窮屈な思いをしながら目を瞑った。

朝起きると吉田氏に怒られた。人がせっかく譲ってやったのに平丸お前ひとりだけ寝やがって、ぶつくさ不当なことを言うのがおっさんのくせにたいそう燃えたので、吉田氏は嫌がったが朝から及んでしまった。

(ああしかし「初めて」の一番の思い出が事後のビンタなんて!…あ、やばい喋るとこれヒリヒリする)


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奥さんは今回はログアウトしました
たまになにも考えずほもが書きたい


(2010.1229)