息が切れる。膝がガクガクする。夜風は冷たい。酷く疲れていた。さっきまで肺が痛いと感じていたはずだったがその痛みさえだんだん麻痺してきている。街灯の下シャツとスラックスというとっときのランニングウェアでふらふらと走る僕をすれ違う人々は奇異な目で見つめた。それでも走るのをやめるわけにはいかない。どうにも気ばかり、急いていた。

緊急事態である。吉田氏が電話に出ない。こんなことは初めてだ。家にかけても編集部にかけても行方が知れぬ。普段なら食事中であろうと仕事中であろうと、あるいは用を足しているときだったとしても吉田氏は僕の電話に出るだろう。僕から吉田氏に連絡を取るなどということはほとんどなく、そのだいたいの場合が急を要する事柄だからである。

しかし吉田氏は電話に出ない。どころか二度目にかけたら留守電に変わっていた。意図的である。吉田幸司はその夜初めて僕からの連絡を拒んだのだ。気がついたときには携帯破壊せんばかりの力で握り締め自宅を飛び出していた。鍵さえかけたかわからない。もう、どっちだってよかった。

思いつく場所をしらみつぶしに当たった。走りながら電話も何本もかけた。吉田氏に関するあらゆる人間にかけた。しかし見つからない。吉田氏いったい何の恨みがあって僕にこのような無体を強いる。肉体労働は最も嫌悪する行為に他ならぬ。苛々する。マンション付近の心当たりはもうほとんど回ってしまった。ひょっとすると路線を使うことになるかもしれない。くそ、財布を持っていない、取りに戻らないといけないのか。

苛々した。拒否されたことに、見つからないことに、心当たりの減っていくことに、それから、吉田氏は今まできっと同じような思いで僕を探していただろうにそんなことはつゆほども気にしなかった無神経な、僕に。

そうして車が過ぎたかと思えば反対から切れ間なくやって来る焦れったい信号待ち、自分の荒い呼吸だけが聴の世界を覆ったそのとき、僕は不意に、探していた男を見つけた。それは本当に偶然だった。行き過ぎる車を睨んでいたらその向こう、横断歩道を渡った先の小さな公園のベンチ、吉田氏は大きな背を丸めて、座っていた。じわり、目が潤むのはきっと汗だ、汗腺は目にも存在したのだ、発見だ。一秒も惜しく待っていたというにその姿を見つけてしまってからしばらく信号が変わったのに気付かなかった。点滅し始めた青信号を慌てて渡る。狭い横長の公園、端のベンチに座り街灯に薄く照らされた吉田氏にそっと近づくとすぐに酔っているのだとわかった。側には空いた安酒の缶が数本無造作に転がっている。ひっく、ひっく、いつも大きく見えるはずの背中は小さくまるまって小刻みにしゃくり上げていた。

捕まえたら、言ってやろうと思っていたことが、たくさんあった。詰るための言葉を山ほど頭の中に書き留めていたはずだった。けれどそれらは走っているうちに向かい風に飛ばされてしまったのかひとつとして口を出ては来ず、かわりに僕はこう言った。

「…風邪引きますよ、こんな、ところで」

ぴくり、肩を震わせた吉田氏はゆっくりと身を起こし、顔を上げる。蛍光灯の明かりだけでも赤いのはわかった。平丸くん? 傾げる声は掠れている。帰りましょう、吉田氏、手を差し伸べると吉田氏は初めて頑なに首を振り、拒絶を僕に示した。怒るというより驚いて、僕はその理由を尋ねた。吉田氏は赤ら顔でふにゃりと笑う。

「平丸くん、俺のこと追ってきたの、初めてだろう」
「当たり前ですよ、吉田氏が僕から逃げることがなかったんだから」
「うん? うん、そうだな、でもね俺は、うれしいよ、平丸くんが、追ってきてくれたこと、すごく」

なにを言っているのだこの酔っぱらいは、もういい勝手に連行してしまおう、そう思い屈みこんで脇の下に手を入れようとするとじたばたと腕を振り回し吉田氏は嫌がった。なんて手のかかる担当だ! 僕はなんとか吉田氏を立ち上がらせようと試みたが僕より体格のいい男を動かすのはなかなか難航した。そのうち通行人にひそひそ指さされるようになったので仕方なく強行突破を諦め説得に転じることに決め吉田氏の隣に座る。吉田氏はあいかわらずふにゃふにゃしている。相当酔っているのだろう、いつものビシッとした表情など欠片も見当たらない。まともに答える能力があるかもわからなかったが僕はひとつ聞いてみることにした。

「ねえ吉田氏、僕何度も電話しましたよね? なぜ出てくれなかったのです」
「うん? だってほら…そうしたから平丸くん、探してくれただろ?」
「僕に探されたかったのですか」
「ええ? うーーんどうだろう」

話にならない。そういえば酔ったところなど見たことがなかった。吉田氏は酒の席にいたっていつも一口二口舐める程度で僕の介抱役を務めるばかりだったから。ああ、と思い出したように吉田氏が口を開く。僕は汗をよく拭って腕をさすり、長話に耐える準備をした。

「俺さあ、俺、俺な、平丸くん、」
「なんですか」
「いっぺん、甘えてみたかったんだよ、ついでにちょっとは俺の苦労を、わからせてやろうとも、おもった」
「…そう、なんですか。悪趣味だな、あなたは」
「ふふ、誉められた」
「誉めていません」
「うん、そうか」
「なぜ、――なぜ急に、そんなことを?」

吉田氏はこの問いに初めて僕を振り向いた。それからくしゃりと顔を歪めて言う。

“最後かもしれないから“

吉田氏の最後という意味を、僕はしばらく、理解できないままでいた。通りの信号がかわり車の動き出したのにはっとして、どういうことですと聞く。返事はない。吉田氏はうつむいている。肩を揺さぶった。

そのときはらりと水滴が零れて、蛍光灯にきらめき吉田氏のジーンズにじわりと染みた。吉田氏は泣いていた。僕は狼狽して言葉を失う。吉田氏の声は震えていた。

「…最後かも、しれないじゃないか」
「吉田氏、なにを、」
「平丸くんのマンガ! 終わったら俺たち、もしかしてもう最後かもしれない!だって君は描きたくないと言っているし、…俺たちは所詮、担当と作家でしか、ないんだから」
「よし、だし…」
「っ後悔するぞ、平丸くん、俺はなあ、ジャンプでも、指折りの、名編集で、誰よりも君のこと、わかってて、世界で一番君に期待してる、男なんだ。俺がいないと君なんてまともに生きてくことすら、ままならないんだからな。税金だって俺がやってやらないと、きみはてんでわからないし、自分の家の替え洗剤の場所だって、ろくろく知らないし、だから、きみはもう、俺なしじゃ、生きていけないんだから、本当なんだからな…」

ぐずぐずと鼻をすすりながらみっともなく言うこの男が本当に吉田幸司なのだろうかと、僕は不安になった。僕が頼りにしていた、生きる標としていた舵取りの男はこんなにも脆かったか? …ちがう、そうしないと僕が不安になるから、僕の前ではしっかり見えないといけなかったのだ。それだのに僕が手折った。吉田氏の希望を手折った。

ごめんなさい、腹から絞り出して、ボロボロと泣き出した吉田氏の背中をさすってやった。「俺なしじゃ生きられないんだぞ」吉田氏は言うが、どう見たって今の構図は逆だった。(もっとも、ちがう意味で僕も吉田氏を手放せなくなってしまったのだけれど)

明日になったら、次のマンガの一ページでも描いてやろうと思った。仕事ではない。吉田氏の希望を繋いでやるための一ページだ。苦には思わなかった。泣き止まない背をさする。いつからこんな風になってしまっただろう。初めは僕が依存した。自分の人生の舵取りを他人がしてくれるのは酷く楽だったから。しかしだんだんと天秤は傾きを変えた。気がついたら僕らの立場は逆転してしまっていたのだ。吉田氏をこんなにも追い詰められる人間は、そして反対に救うことのできる人間は、僕より他に、ないだろう。吉田氏は僕に依存している。僕はそんな吉田氏を捨てられずにいる。

僕らはきっと互いの身体を喰い合う蛇のようにして一生、互いに依存して生きてゆくのだろう。



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メルシーさんとスカイプでお話してたときの話題から
最近の原作における平吉力関係にざわ…ってなってる…
踊らされているともさ…

(2011.0305)