ぶちぶちと文句をいいながらもその手には紅茶が香る。ソファの前のテーブルにティーセットを運ぶ平丸くんの手つきは慣れたものだった。ありがとう、礼をいってカップを手にとればふんと鼻を鳴らして作業机に着く。一口すするそれは俺がひと月前購入したカモミールだった。数日前その缶が切れ平丸くんがわざわざ店を探して購入してきたものでもあった。そろそろなくなる頃かなと思って食器棚のぞけば俺の知らない店のシールを貼られた新しい缶があったからそうだ。どこでも見るものではないから探し回ったのは検討がつく。(本人は匂いがいやだといってひと舐めしただけで毛嫌いしたというのにもかかわらず、だ)

けれどそんなことはなにも知りませんといった体で作家は憂鬱を撒き散らしながら背を痛めそうな姿勢で机にガリガリむかっている。初秋の午後二時、ねむいのかいつもの不平不満は俺の来た最初だけで今はもう口をつぐんでいた。はじめのころに比べれば従順になったものだ、ふたり掛けのソファゆったりと足を組みかえながら思う。前のアパートに住んでいたころなんてたいへんだった。逃げ出すのは茶飯事であったし、さいあく脱走したあとに襲われることもあった。なんでも追ってくる俺の表情がもえるのだそうだ。とんだ変態だとおもう。

しかし変態は変態なりに学習するらしい。今のマンションに越してからは脱走の回数が日に日に減った。たんじゅんに二階から高層階にあがってめんどくさくなったからという気がしないでもないが。まあ、俺の手がわずらわされず原稿がすすむようになったことを考えれば進歩といえるだろう。渡されたネームにうんとうなずく。だいぶよくなったし、これでペン入れしてみようか、提案しようとした声はしかし中途でさえぎられる。俺の手からネームの束をとりあげた男はもう先ほどまでのふらついたマンガ家ではなかった。細身のくせにソファについた手の重さが革をつたって俺の背をギシリとゆらす。眉間に軽蔑ではない皺のよるのが自分でわかった。

「…なあ平丸くん、思春期じゃねえんだからさ、」
「思春期じゃなきゃセックスしたらいけないんですか」
「極論だよ、…あっ、」

シャツの下に滑り込んできた爪先の皮膚をなぞる感触に声がもれる。やはり変態はどう学習したって変態でしかなかった。ソファに膝をついた平丸くんは俺の胸をどんと押す。そうして人の歯列を勝手になぞったくせにおいしくない味がするなどとのたまってぬるりと出て行った。なにを考えていたんです? 俺のシャツのボタンをぷちぷちと外しながら平丸くんが聞いた。

「なにをって?」
「さっき。考え込んでる風でした」
「なんだちらちら見てたのかきもちわるい」
「! ちがいますよ! ていうか茶化さないでくださいよ、」
「ふん、」

…最近、逃げないよね。つぶやけばああと平丸くんは得心したように軽くうなずいて笑う。

「だってほら、僕が逃げたら吉田氏僕のことだけ考えるでしょう」
「ん…嫌なのかい?」

鎖骨に落とされる口付けにうすくあごを持ち上げながらたずねれば、俺に馬乗りになった男はわるい顔で笑った。ちがいますよ、どうでもよくなったのです。…どういう意味だ。逃げたって逃げなくたってあなたは僕のことしか考えていないんだからそれでいい、言って平丸くんは骨ばった手で俺の背を撫ぜる。ぞくりとした。冷たい手のひらのせいかどうかは知れない。(…くそ、平丸のくせに)

それはどうかな、僕はきみだけの担当じゃないんだから。冷や汗を感じながらも気持ちていどの抵抗を言葉でかえせば平丸の分際で一笑に付すのがむかついて足を伸ばし、靴下越しに擦ってやった。あ、とかう、とか短くもれる声に興奮する。余裕がなくなってきたのか強引に口に突っ込まれた指からはさっきまで飲んでいたカモミールの味がした。あの紅茶だってほんとうは僕の眠れないのを心配して買ってきたんでしょう、せわしなく俺のベルトを外しながらいわれた言葉は、…まあ、あたっていた。あんな紅茶よこすくらいなら吉田氏が毎晩世話してくれりゃいいのに、調子に乗った男のあごは下から殴っておいた。

(そうできるならとっくにしてるさ、このバカめ)


(2011.0929)