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ささいなことだった。ふとしたときにマグカップを割ってしまった。吉田氏がコーヒーを飲むときに愛用している白無地の背の高いやつだ。キッチンの前座りこみ僕の手のひらを何度もひっくりかえして怪我がないか確認する吉田氏にごめんなさい、これはさすがにあやまった。しかし指先からようやく離れた目はおもった以上に笑っていなかった。

――お仕置きだな、平丸くん。

低い声にヒッと喉が張り付き反射的に握られた手を引っ込めようとしたがそれもかなわない。吉田氏の力は貧弱な僕とくらべたらよっぽど強いのだ、勝てようはずもない。ベッドに引きずられるようにして連れて行かれた僕に許された抵抗といえばせいぜいこの鬼畜だとか男を罵る程度のものであった。

そうして寝室に着けば吉田氏はなぜか部屋の電気をパチと点ける。常ならば暗い室内を好むはずなのにと首をかしげているあいだにベッドに放られた。そうしてその腹の上に乗るのは僕の手以外はどうでもいいと思っているにちがいない編集者である。大の男の体重に呼吸が圧迫されて少々苦しく、シーツについた膝をバシバシとたたいたが自らの上着を乱雑に脱ぎ捨てた男はものともせず僕にいう。

「さあ平丸くん、俺にお仕置きしなよ」
「…へ?」

吉田氏が身をかがめるとサラリ落ちた黒髪が僕をそそのかすように頬を撫ぜる。先とはまたちがった意味で怖気がよぎった。もはや喉さえも恐怖を発せない。吉田氏はゆるやかな間接照明の下、わるい顔をして笑っていた。

仕置きをされるのは実は茶飯事で、慣れているといえば慣れている。本来なら主導権を握る側のはずなのに動いたらだめだとか言われてけっきょく吉田氏に無茶苦茶されて終わることなどしょっちゅうであったし、今日はむりですといったってアホか勃たせろと触れられかんたんにその手に乗ってしまうことなど今では当たり前になっていた。またひどいときには反対に吉田氏の機嫌ひとつで一ヶ月禁欲を強いられたことだってある。けれどそれらは本当によくあることで、だから僕は無体を強いられることに一応は拒絶をみせつつも、おそらく実際は順応していたのである。なんだかんだいったって吉田氏とのセックスは、それはきもちがいいし、それに僕に傲慢をはたらく吉田氏のえらぶった顔は、いたく燃えたから。だから、つまり、今日だって本当は腹の底ではあさましい期待をしていたのだ、僕は。

しかしいざベッドに来てみれば吉田氏は奇妙なことをいう。お仕置きの強要などきいたことがない。だいたい僕はサディストの吉田氏とはちがうのだから他人にそのような行為をはたらいたことがない。わけがわからない。じわ、と涙のせり上がってくるのがわかった。吉田氏の口角が同時に持ち上がるのも。泣いたってだめだよ平丸くん、僕を仕置きされる側につくりあげた男がいやらしく鎖骨を撫でながらわらう。悪魔のような男だった。そうしてろくに思考のできたのはそれが最後である。

それからは本当にさんざんだった。さんざん、という言葉の本当の使い方を勉強できたような気さえいっそする。僕の主導権を奪った男は今さら主導権をふるうことを強要したのだ。思えばわざと明かりを点けより明確な裸体で僕を誘ったのも、普段口にしたこともないような言葉を泣きながら吉田氏に向かって言うあの行為もすべて僕への嫌がらせだったと思う。なにが欲しいんですかだとか言わないとあげませんよだとか本当にしにそうになった。そのくせめずらしく自分本位に腰を動かす行為はひどく善くて、今度はまたちがう意味でしにそうになった。僕の必死を満足そうににやにやと眺めている吉田氏はひどいとおもう。(突っ込まれているくせに)

いつもとちがう立場に吉田氏はそれなりに興奮したのか拘束はいつもより長く、終わるころには疲れ果ててシーツに突っ伏すしか僕にはできなくなっていた。犬のように振った腰が痛い。吉田氏は素知らぬ顔で煙草を吸っている。ベッドが燃えたら嫌だといつもいっているのに聞いてくれたためしはない。だいたい受け入れる側の方がつらいはずだのになぜそんなに平気なのですと問えば平丸くんの方が俺より身長低いからじゃないのと遠まわしに僕の男を否定された。涙が出そうだ。(ていうかさっきまで泣いていたけれども)うつぶせになっていた身体を天井に仰向けふと、そんなに大事だったんですか、吉田氏にたずねた。はあ? 頓狂な声がかえってくる。けげんな顔を僕は見上げた。

「だって、あのマグカップ、普段あれくらいのことで吉田氏怒らないでしょう。いくらドSだからって」
「ドSはよけいだろ」
「答えないのですか?」
「んー…」

だってほら、あれ平丸くんが俺にはじめて買ったものだったじゃない。煙草をふかしながらさらりとそういい吉田氏は火端を揉み消した。その白いけむりがすこしずつ小さくなって消えるまで僕にはその意味がわからない。ボッと煙草のかわりに火のついた僕を吉田氏が顔ゆがめわらった。

「平丸くん中学生みたい。ダサ」
「う、うっうっうっ、うるさい! よ、吉田氏があんなことをい、いうから、だから、」
「また新しいやつ買ってよ」
「……ハイ」

素直でよろしい、先生のようにいって吉田氏は立ち上がった。風呂場にむかうその背中を追う。一緒にはいるの? 脱衣所でものめずらしそうに僕にいう吉田氏の腰をそっと抱き締めると、困ったように笑う声と背に回された腕は柄にもなくやさしかった。

(数年前無印で支払った数百円のことなどとうに忘れていたというのに)


(2011.1002)