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東京にはありじごくがないと平丸はおもった。

そもアリを見ない。彼らの巣穴はきっとこの数十年で数えつくせぬほどの回数コンクリートの海に流され固められていったのだろう。ぼくらは素知らぬ顔でその上をあるいている。

しかしそれは、幼いころ子どもらの仕事だった。アリの巣を壊したことがあるか? 一切ないという人間は、じつは少ないのではないかとおもう。ひとつふたつ年上の子らについて回っていわれるままに巣穴に水を流し込んだり、あるいは石ころをのせたりほじくり返したりしてアリの巣をころす。あわてていたアリたちがやがて諦め顔で四方に散っていくのをみなで笑った。背徳的な、残虐なしかし純粋な楽しさがあった。おとなになってから思い返すとなんであんなことをしたんだろうと感じる部類に入る事がらだけれど、その思い出のなかにもたしかな楽しさを覚えている。あるいはありじごくはあのとき散っていったアリたちをあたたかく迎えいれる絶望の家だったのかもしれない。といったところで、公園にきてみたってアリの巣もありじごくもなかったから、問いただすことも平丸にはできないのだけれど。

ふわあ、あくびをひとつして胸ポケットから煙草を取り出しベンチにかける。家から十分ほどのところにある公園は都会らしく狭くて、ベンチがふたつと簡易な遊具がちらほら並ぶだけで、いまどきの子どもは放課後もかで遊ぶことが多いのか人気はすくなかった。吸ったところで見とがめられることもあるまい。とおもったのに火をつけようとライターをとりだした瞬間手付かずの煙草をスッと奪われた。見上げるまえに匂いだとか、切らした息だとか服装だとかの雰囲気でわかる。逃亡したじぶんを追ってきた編集部の担当だ。

「――吉田氏、」

はやかったじゃないですか、えらいえらい。平丸なりに冗談でいったのに顔をムッとした吉田は手にしていた煙草を垂直に落としそれをぐりぐりとスニーカーの爪先で踏みにじった。(あーあ、ポイ捨ては犯罪なのに)そんなことをおもっていると襟ぐりをつかまれ乱暴に引っ張り上げられる。間近で見る悪鬼のような形相に股間がヒュッとなる。爽やかな秋風のためではけしてない。原稿しようね平丸くん。言葉のすべてに濁点がついたような言い方で吉田はいって平丸の足をようやく地面につけた。平丸は出しっぱなしのライターを尻ぽけっとにしまって、つかまれた手におとなしくしたがってあるく。前をゆく肩はあいかわらず怒っていたが平丸の足は期待にいくらか跳ねていた。


ひとしきり怒ったあとの吉田は、砂のように甘い。それはまるでありじごくのようなものだ。家をなくしさまようアリを引きずり込むありじごくにアリはゆるやかな抵抗をするけれど、あれは本当は半ばその運命を感受しているのではないだろうかと平丸はおもう。いっそひとおもいに落としてくれというアリのためのもののように感ぜられる。すくなくとも吉田というありじごくは平丸にとってそうだ。

平丸は原稿を描くのがきらいだ。だから逃げ出す。そうすると怒って吉田が追いかけてくる。そうして家まで連れ帰るとこんどは一転しておいで平丸くん、甘い声をだし平丸を誘うのだ。それにしたがって安易な平丸はずるずるずると堕ちてしまう。落ちた先には原稿の地獄が待ち構えているとわかっているのに相手のさしだす手にうかうかとのってしまうのだ。毎回の連鎖を断ち切れないくらい、吉田の声はあまい。

「そうだ平丸くん。今日はちかくで済んだから、ちょっと長めにしてもいいぜ」

ほら、これだ。平丸はわざわざ敷きっぱなしにして出てきたせんべい布団にその身体を押し倒す。うあ、とうめく声でさえ平丸のそれにはない大人の色香がある。これに転がされ何人のアリが群がったのだろう。おもうけれど今はそれより目先の性欲が先だった。はしたなく下肢をこすりつけると平丸のひたいをやわく手のひらで押し返した吉田が小さく笑う。地獄だって落ちていいや、いつものようにそう思わせる、笑みだった。

あ、あっ、う…。平丸ははやいから二、三回擦っただけですぐにいってしまう。ありじごくが笑う。平丸くんは楽で助かるよ。平丸くん「は」とはなんだ「は」とは。ほかに相手がいるみたいではないか。詰ると吉田は曖昧に笑っていた。悪質なありじごく。きっとアリなら誰だって相手にするのだろう。軽蔑と疑心をはらんだ目でにらんだが察したように吉田はうすくわらった。

「平丸くんだけだよ」
「え」
「誰にでもするわけじゃない」

うそだ、とは、いいきれなかった。平丸には言葉の真偽がまったくわからないのだから。わからないけれど勃った。勃ったからいれる。行為のあとにまっているものなどもう忘れてしまった。平丸はおちてゆく。



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チエコショウ?だっけ、空がないのやつ。忘れた。一行目のやつね。
(2011.1030)