秋の匂いはじめた夜長、シャツをめくった肘、ずっと掻いていたから軟膏を塗ってやった。ひりとした感触に平丸くんは小さく身を震わし、それから口元をむずからせ、掻いてもいいですかと聞いた。このバカ、御年、二十六歳。

「ちょっとくらい我慢しなよ、後で蚊取り線香も買ってきてやるから」
「この辺緑が多いから蚊も多いんですよ、こんな調子じゃ原稿は書けな「なにか言ったかい?」…いえ、なにも」

隙あらばサボろうとするのを制し、さあ早く早くと作業机に向き直らせせっつく。締切は今日、終わるまでは帰らない。なんだかんだ今まで平丸くんの原稿を落とさせたことはない、今週だって落とすわけにはいかないのだ。現場監督もたいへんである。

うしろに立って時折手が止まると右足で畳をたたきプレッシャーをかける作業、しばらく繰り返してふと、左手の指を噛まれたのに気がついた。きっとさっき平丸くんを噛んだ蚊にちがいない。小指の第二関節、末端器官は刺されるとひどく、かゆい。爪でガリガリと掻いていれば今度は首を刺された。苛々と狭い部屋を見渡す。犯人は現場にもどるどころかさっきから現場を離れてすらいないにちがいない、目を凝らしていると畳の軋みの途切れたのに気がついた平丸くんが振り向く。

「吉田氏? なにして、」
「! っ平丸くん動くな!」

ダン、と、衝動的に踏みつけた靴下越しの、その掌。そっと、身を離すとそこに、先ほどはあった羽虫の姿はない。ただ薄赤く腫れた掌だけがひくひくと、震えていた。

「…あ」
「〜っ よ し だ し !」

四文字にすべての文句を集約した声、俺の耳をたたく。さすがにこれには慌てしゃがみこんだ。中指のカタカタ戦慄く右手持ち上げ、骨だけは無事なのを確認する。それからハッと平丸くんを見た。よほど痛かったのだろう大人の男一人分の体重だ、唇が震えている。これはまずいことを、した!

「その…わ、悪かった、か、蚊がね、いたものだからね、」
「……仕事用の、右手ですよ」
「いやその、悪気があったわけじゃ、」
「でも痛かったです謝罪を要求します、吉田氏、」

舐めてください、突き出された右手わずかに赤く腫れた。舐める義務なんて勿論ありはしない、だが日頃この男にとっている態度を思い返すとそうしないのも気が引けた。(徹底した等価交換のああ悲しき)

おそるおそる、畳に手をついて身を乗り出し、直線の跡残る薬指から手の甲にかけて、舌を這わせる。いくらか熱持った肌に触れた瞬間ぴくりと揺れたきり、平丸くんは空に手を静止させている。白い皮膚をたどり、血管に這わせ舐った。

ひとしきりなぞり、朱のやや、引いたとみて、顔を上げる。

「あ、」
「っ!」

バッ、思いきり顔をそらすものだから揺れた毛先が鼻を掠めシャンプーの香りだけが残る。仄かな匂いに思考を圧迫されながら、それでも耳まで赤く染まったその横顔は見間違えようがなかった。

手から顔に移ったのかと、なんだかやけに、納得した。そのあと平丸くんは真面目すぎるほど真面目に原稿を描いた。終えるまで赤い顔は一度も、後ろは振り返らなかった。

(ねえ平丸くん真っ赤だけどどうかしたの)
(刺されたんです顔一面)
(…この嘘つきめ、)


(2009.1005)