(要注意、なんて生真面目に書かれた付箋が、ついたままですよ)


しとしとと、霧雨の流る神無月。作業部屋にはカリカリとペンの走る音、窓の向こうの憂鬱な永続の雨だけが染みて、僕はとうとう原稿を描く手を、止めた。

息が詰まる、休憩をしてこようとマルボロを一本引き抜いて、立ち上がった。廊下に出て右手の居間を通り抜け、ガラスの前ぐしゃぐしゃの洗濯物を越えて、ベランダへ。湿気を張り付かせ開きたくないとごねる窓を横に押し開けると、すっと、薄暗い雨の匂いが肺を満たす。ひやりと首筋を、手を鼻を、撫ぜる空気はもうすっかり秋のそれだった。

端だけ濡れたベランダのコンクリート見下ろし、雨風に気をつけながら、煙草の先に火をつけた。メンソールはたまに、吸いたくなる。すっとした煙は吐き出すとすぐにうやむやに消えた。原稿を描く気はちっとも起きない。一本吸い終わるころにはなにかが変わっているだろうか。(まあ、ありえないけど)

暗い空の下そんなことを考えていると憂愁は唐突に終わりを告げる。無粋なインターフォン、鳴らすのはひとりしかいない。

面倒くさくて放っておいた。すぐに彼は来た。足音のおわりに背後、ため息が聞こえる。すっと、顔の横に差し出された手には携帯灰皿が口を開けていた。煙草を手に持ち替え、いやだ、と言えば肩をつかまれ強引に、唇が押し付けられた。外をあるいてきた唇はまるで彼の態度のように冷たく、けれどその内の舌はひどく熱を持って、いやらしかった。数度、舌を舐り合ってそれから、どちらからともなく身体を離した。

さあさっさと煙草を捨てろとでも言いたげに再び差し出されたグレイの灰皿、すこし反抗してやりたくて、水たまりのできたベランダの片隅にぽいと捨てると生真面目を装った声、ポイ捨ては区の条例に違反してるんだぞ平丸くん、と口うるさい。サンダルを脱ぎ捨て、部屋に上がった。

「煙草、すぐ止めますよね」
「肺ガンで死なれる前に俺が一生楽できるだけの金を稼いでもらわないと困るからね」
「そうですか」

それぎりしばらく会話はなかった。
普段ならはやく原稿を描けと飛んでくる担当の怒声もめずらしく、今日はない。集英社からこのボロアパートまで、途中電車に乗って、けれどあとは陰鬱な雨に降られ、いささか疲れていたのだろう。そそくさと上着と靴下を脱いで洗面所の方に歩いて行った。僕はそのあいだに作業部屋の押入れから毛布を出した。畳の上に置いておくとそのあと無言で、それを羽織る音が聞こえた。

描く気はやはり起きなかったがどうも物憂いこんな日には、さっさと仕事を片付けて入稿後の一本を愉しもうと机に向かった。

小一時間で、原稿は終わった。担当のチェックを数箇所直して、すこしばかり打ち合わせをすると乾いた上着を羽織り、吉田氏は封筒を抱いて立ち上がった。今にも帰ろうとする吉田氏を呼び止める。

「吉田氏、忘れ物ですよ」

この前僕の家に、忘れていったでしょう、机の下に置いておいた一冊の文庫本、言葉とともにつきつけると吉田氏は、一瞬ひどく焦った顔をして、それからゆっくりと、微笑した。

「なんのことかな平丸くん、他の人の忘れ物じゃないの」

僕が吉田氏に嘘をつけないのとおなじで、吉田氏だって僕に、嘘はつけないのだ。


(「恋人に煙草をやめさせる10の方法」…また、わかりやすいタイトルで)



(2009.1018)