担当と作家の恋愛なんてろくなもんじゃない。 しかも、男同士なんてなおさらだ。その上、相手があのニート一歩手前二十六歳、平丸一也だなんて、そんな、人生不安定コースへようこそと書かれた看板にこんにちはするようなものじゃないか、馬鹿馬鹿しい。俺はいたって順風満帆な、安定した出世の道を歩いてきたはずだそうだ思い出せ、三十三年、特に目立つことはせずしかし堅実に、確実に俺は歩いてきたじゃないか、今さらバンジージャンプコースに転向するなんて気がどうかしている。 そう、つまり、俺は混乱しているのだ。 混乱には秩序、そう順を追って考えることが重要だ、一から思い浮かべるとギリリと、噛み締めた唇血がにじんだ。 発端はおそらく数年、付き合った彼女に振られたことだろう。いや、彼女ではない元彼女だ。日本語とは時にかくも残酷である。 元彼女が聞いた。あなた他に好きな人ができたの。これが数ヶ月前。 元彼女が言った。最近いつも忙しそうだね。これが二、三ヶ月前。 元彼女が泣いた。わたしじゃあの人に勝てないの。これが二週間前。 一度目二度目はそんなことないよ、なかなか電話できなくてごめんとなぐさめたが三度目は、なんて言えばいいのかちっともわからなかった。 そもそもあの人ってだれだと、考えるばかりで泣いているその肩に触れることさえできなかった。部屋を出て行ったあとようやくあの人が、平丸一也を指していたのだと気がついた。(たぶん俺はにぶい男なのだ、超がつく) そうして残された部屋で、ビールを何本か開けたあと、俺はすこしだけ泣いた。 しかし元彼女に振られても朝陽は昇るもので、世界は俺の哀しみなどものともせずに動いていく。数時間後にはいつもの山手線に乗って、振られた原因の家を目指していた。つり革に揺られながら、ああ毎日こんなことをしていたから俺は振られたのだなと、しみじみ思った。 出入りのすくない小さな駅で降りる。改札は普段なら定期を使うのだが、今朝はせめてもの抵抗で切符にした。だが夕方はおそらく面倒くさくて定期をかざすのだろうと思うと胃が痛んだ。 重い足を引きずって階段を上り、桜の吹きはじめた道をゆく。アパートは駅から十分ほど、下町の名残を残し入り組んだ通りの中にあった。黄色い帽子たちが無邪気に追いかけっこしながら登校していく流れに逆らって行く。 アパートは築数十年を感じさせる造り、二階建てで、階段は錆びつき踏むたびにひどく軋んだ。平丸くんはおそらく今ごろ飛び起きて玄関の守りを固めているところだろう、いつもこの音で俺が来るのを知ると言っていた。同時にダース・ベイダーのテーマが聞こえるとも言っていた。失礼な男である。 二○一、俺お断りと書かれたチラシの裏をいつも通りに引きちぎって呼び鈴を押す。すこし待った。・・・おかしい。いつもならここで、多種多様な俺への拒否反応が返ってくるのだが。例一、「すみません、おかあさんはいまおうちにいないので、」例二、「うち、木村ですけど」例三、「いません!」 おかしい、妙だ、不安を覚えながら取っ手をつかむ。回してみるとカチャリと、なんともあっけなくドアは、開いた。ギィ、重い音を立てる玄関を破り、もしや具合がわるいのか? と思いながら足を踏み入れた。 突き当たりの居間、いつもごろんと寝ている部屋にまっすぐ行ったが姿はない。(まさか作業部屋にいるはずが、また逃げたのか? いやそれなら鍵がかかっている、)ベランダ、トイレ、風呂と探して最後に廊下の間の、作業部屋の襖を開ける。 「あ」 今日はなんだ、地球の滅ぶ日なのかと本気で一瞬思った。働きたくないと真顔で言う男は机に向かってカリカリと、ペンを走らせていた。違和感に首をかしげながらおはようと言えば、おはようございますと振り返らずに彼は言った。なんだ、調子が狂う。いつもなら「平丸くんなにしているはやく描くんだ!」「いやです吉田氏僕はもう沖縄に移住します!」から始まる一日が爽やかにおはようで始まってしまった。なんと、奇妙な。 俺が立ち尽くしていると平丸くんは原稿に目を向けたまま言った。 「朝ごはんなら、さっき食べました。原稿は、あと四ページです」 「! そ、そう・・まだ締切まで三日もあるからそんなに、無理、しなくても、いいんだよ・・・?」 答えながらまた、違和。声がいくらか固い。緊張している? なぜだ? 昨日の夜から始まった非現実的な現実によろよろと、畳に座り込むと平丸くんは顔上げず言った。 「吉田氏僕は、吉田氏が好きですよ」 (・・・・・・・・え?) この一連はたちの悪い夢なのか、だとしたらいつ終わるのか、いや夢じゃない、つねれば頬が痛い。混乱の渦に飲まれた俺に、白い背は、一枚原稿用紙を差し出した。 「このページチェックしてください」 「へっ、あ、・・ああ、うん、わかった」 渡された原稿に目を通したが、編集者のくせにそれがいいのかよくないのかは、わからなかった。 その日俺は、突然の告白になにか空恐ろしい気持ちで家に帰ったが、次の日から平丸くんはいつも通りの彼にもどっていたから、内心ではほっとしていた。 そうしてなんの変哲もなく、忙しい日々がまたやって来た。元彼女と別れたときは変わらぬ日常がむなしく思えたが今はひどく感謝していた。会社に行って仕事をして担当作家の背をげしげしと押してそれから家に帰る、それだけでああ日々はなんと素朴で幸せなのだろうとしみじみした感慨を抱くまでに至っていた。 悟りを開いたかのように毎日を噛み締めていた俺、再び非現実に突き落としたのは、平丸くんだった。 飯を世話するのは俺の役目で、その日は通りがけのスーパーで特売をしていたから、たまにはあったかい味噌汁でもつくってやるかと、玉ねぎと豆腐、若芽を買った。 ビニール袋片手にのんびりと下町をゆき、ギシギシと階段を上り、嫌がる平丸くんをご飯つくってあげるからの一言で打ち破り、居間とつながった狭い台所で料理をする。平丸くんはだらだらとテレビを見ながら床にころがっていたが、味付け、匂いが鼻をくすぐるとのそりと立ち上がって俺のうしろに立った。 持っていたお玉で一口すくってふうふうと、冷ましてやって、振り返る。 「ちょうどいい平丸くん味を見ろ」 差し出したお玉、平丸くんはゆらりとかがむ。そして、 (――え?) キスされた、気づいたときにはカランカランと、金属の床を打つ音が響く。飛沫が靴下を濡らしたがそんなことさえ、気にするひまのないほど、俺は突然のことに動揺していた。乾いた唇はそっと、離れる。平丸くんはばつがわるそうな顔でぽそりと言った。 「だって吉田氏が味を見ろと」 「なっ、ば、ばかやろう!」 反射的に罵ると平丸くんの腕がすっと伸び俺を抱きしめた。(な、なにしてんだ男、男同士だぞ・・!)さっきまで俺は安定した現実に浸かり幸せを噛み締めていたというのに嗚呼安寧の崩れる速度のなんと速いことか。 うろたえ微弱な抵抗を手で試みるが強い意志を持った腕にはまるでかなわない。頭を胸に押し付けられ否が応でも肺が平丸くんで満たされる。そうして気づいたのは、その心臓の鼓動がひどくはやく打っていることだった。(くそ、まじかよ・・・)震えを俺に伝えながら平丸くんは問う。 「返事、」 「え、」 「返事、聞いてもいいですか」 そんなもの、答えられるはずがない。喉が引き攣る。抱き締める力はますます強くなった。 「答えてくれないんですか僕は二週間も、待ったのに」 「っじゃあそのまま、もう一週間くらい待てばいい、」 「嫌です吉田氏また、誤魔化すつもりでしょう、僕はもう、待てませんよ・・・」 言葉は本当らしかった。平丸くんの手はいつのまにかグツグツ言っていた鍋の火を止めそして俺の身体をいともたやすく床に、押し倒す。頭を打たないよう気を遣い添えられた右手が恨めしかった。馬乗りになった男は俺を見下ろしつらそうな表情を浮かべている。本気なのだということは、痛いくらいに伝わってきた。 「・・・吉田氏、ごめんなさい」 長い指はたどたどしくしかし性急に、俺のシャツをめくり上げた。 ああ、 絶望だ、 (――俺には本気で、抵抗する気がないのだ) 頬を伝った涙は一滴、床にこぼれ落ちてどちらかのシャツに染み込んで消えた。 流された、というのがたぶん正しい。 男とそんなことをするなんて俺は考えたことがなかったししたいとも思わなかったが、抱かれてみれば痛みはあれど、その、まあ生理的な嫌悪を覚えるほどではなかったし、平丸くんは俺を気遣ったし好きです好きですと熱に浮かされたようにつぶやく姿はなんだか可愛く見えた。 だが終わってみれば不安だけがのこり、一体このあと彼にどう接したらいいとそればかり考えていた。なにもなかったように装えばいいのか、それとも詰ればいいのか、いったい、どうすれば。担当と作家の恋愛なんてろくなもんじゃないとわかっていても踏み切った方がいいのか、否、踏み外すと言った方が正しいのか。 そう、つまり、俺は混乱しているのだ。 事後、運ばれた布団の中でぐるぐると、朝陽に目を瞑りながら必死で思考をめぐらせていた。順を追って考えてわかったことは、いつのまにか元彼女の存在が平丸くんに上塗りされて消えてしまっていたこと、俺は平丸くんのことばかり考えていたこと、そうしてたいへんまずいことに、俺が平丸くんのことを、まんざら嫌いでもないということだ。 どうしようああどうしよう、とめどない思考の奔流に頭悩ませていると背後、眠っていたはずの平丸くんが突然口を開いた。 「吉田氏、起きてますか」 リアクションを抑えるのはなかなか大変だったがなんとか、震えはおさえた。しかし平丸くんは平然と言った。 「起きてるんですね、・・・昨日はすみませんでした」 (! くそ、あやまるくらいなら、するなよな・・!) 「でも一度きりとかそんなこと、僕考えてません。もう無理です、たぶん次も襲います」 「っなんだよその、不穏な告知!」 「あ、やっぱり起きてたんですねおはようございます」 つい飛び出た言葉に平丸くんが擦り寄ってくる。自然な動作でうしろから抱きすくめられ肌がざわめいた。離せと喚いたのにぎゅうとますます強まった。その上耳朶を噛まれ、背筋がひそりと笑う。 「ばか、平丸くん、やめ、」 「彼女がいるって知ってからずっと嫉妬してました」 「、え?」 突然トーンの落ちた声音におどろく。平丸くんはいう。 「嫉妬して、逃げて逃げて、僕で手一杯にさせて、ちょっとでも会う時間が減ればいいと思いました」 「なにいって、」 「でもそのうちそれだけじゃ我慢できなくなった、吉田氏が本当に欲しくなった。だから告白しました、前日は緊張して眠れなくて、ずっと原稿を描いていた」 喉が渇いていく。うなじにはしずかな吐息がかかっていた。 「吉田氏ごめんなさい、僕はずるい男だ、ここまでして吉田氏が欲しいと思っている。・・・・ごめんなさい、吉田氏僕は、吉田氏が好きなんです。きっと一生、吉田氏を手放せない」 「・・・くそ、ばかやろう、」 知らずのうちにこの馬鹿の策に溺れていたのだと思うと腹が立ったがなにより苛立ったのは、この腕の中にいることに、ひどく安心している自分だった。元彼女の顔さえうっすら忘れている、俺だった。 本当に、腹が立つ、お前なんか俺があったかい朝ごはんを食べる横で冷めた味噌汁を飲めばいい! ああこんにちは、人生不安定コース! (2009.0817) ++++ 夏の身内本より再録 スパークの福雄本も、まあ、そのうち (2009.1104 サイト掲載) ← |