とおく、電車の音が聞こえる。

十四階までくると車の音さえ届かない。かろうじて時折り、ガタ…ゴトン、小さな音が耳を掠めるばかりである。二○一に住んでいたころは近くに踏切があって、カンカンというやかましい信号の警告が、通り過ぎる電車の足音がよく聞こえていた。上京してきたばかりのころはうるさくて、眠れなくて苛々としたものだが数ヵ月後にはぐったりと布団に飛び込み時には夢すら見ずに、眠ったものだった。終電近く、思い出したように鳴る踏み切りはほとんど、子守唄みたいなものだった。離れてみて初めて懐かしく思う。

呼ばれたように振り返ると、高級なテーブルの向こうのソファ、腰掛けていた吉田氏と目が合った。ん? と目を上げるのになんでもありませんと首を振って、雪原の原稿に向き直る。しろい。僕のこころも雪原になってしまいそうだ。ああ、思えばのほほんとボロアパートに住んでいた頃はよかった。吉田氏に圧迫される日々であることに変わりはなかったが、黒い口を大きく開けた巨体、ローンという名の底知れぬ魔物に脅かされることもなく暮らせていた。乗り慣れない外車で事故起こして電柱の請求書に頭悩ませることだって、なかった。(ああもうすべては、吉田氏の策略のせいなのだ、あの悪党め)

すると僕の悪態を察したように、ふいに吉田氏が呼ぶ。びくり! なんですか、恐る恐る、聞けば、背後で立ち上がり、近づいてくる気配がある。(まさか、読心術まで、つかえたとは、吉田氏…! KYのくせに…!)ばくばくとうるさい心臓、すぐそばの衣擦れの音、ああきっと怒られるにちがいない、ちがいないのだ、僕は観念してぐるりイスを回し、ごめんなさいと頭を下げた。怒られる前にあやまったらすこしくらい、怒りの量が減るかもしれなかったから。

「吉田氏、すみません悪党だなどと思った僕がわるいのです、だから締め切りは早めないでくださいおねがいです…」
「…はァ?」

返ってきた疑問符に顔を上げる。眉根に皺寄せ吉田氏が見下ろしていた。その腕が僕の横を通り過ぎ、机の上のカップに伸びる。冷たくなった白い泡だけが残ったカプチーノ。(いやもう牛乳の泡しか残っていないわけだから、厳密にいえばそれはカプチーノではないのかもしれない。カプ? チーノ? まさかプチーノでは切れまい、)うーんと僕がくだらないことに悩んでいるとスタスタと、カップを持ち上げた吉田氏はリビングとひとつづきになったキッチンに姿を消した。背の低いカウンターの向こうで新しくエスプレッソを入れる背中が見える。なんだ、空になったからか。拍子抜けして背もたれにのろのろと倒れこむ。ぼけっとしていると湯気を匂わせながらもどってきた吉田氏が不機嫌な顔で言った。

「で、誰が悪党だって? 平丸くん」

つうと、ひたいを滴り落ちた汗とは対照的に、渡された白いカップはじんわり、熱かった。(ふうふう、ふー!)気まずい沈黙も吹き飛ばせてしまえたらいいのに。ひとくちすすりながらそう思った。


吉田氏はお茶やコーヒーを入れることに関しては、僕よりずっとずっと上手だった。だから最初は僕がコーヒー用に使っていたポットも、最近ではもうすっかり吉田氏の物になっている。貰い物の紅茶とか、ちょっといい豆のコーヒーとか、時間があってそして機嫌がいいときは、吉田氏が入れてくれる。このごろの流行はカプチーノのようで、今日も家にくるなりまずは一杯とつくり注いでいた。ほわほわとした泡はほのかにあまく、コーヒーと混ざって引き立って、おいしかった。

ソファに座る吉田氏はさっきまで、だいたい悪党というのはねきみ云々と饒舌に語らっていたが、いまは喉を潤して満悦のようである。コーヒーの匂いを間に挟んで優位の微笑みを隠し切れない様子で居る。見なくたってわかる。いつだってそうだから。吉田氏はいつだって僕より上のとこにいて、そう、たとえば崖の上に立って、ぜえはあ岩肌に爪立て登る僕を見下ろしているのだ。じぶんの手は伸ばさず、なにしてるんだいさっさとここまでおいでと言いながら、たどり着いたときにはまた容赦なく、深い深い、海に突き落とす。(締め切りの翌日の僕はきっと血まみれの深海魚だ)イーブンになったためしなど一度もない。ひどいはなしだ。

ペン走らせながら僕はなんだか悔しいような腹立たしいような気持ちになって、カプチーノは半分飲んだままで放置した。暖房つけているとはいえ十二月、冷めるのはひどく早い。

そうしてすっかり貧相になったカプチーノを一口飲んで、僕は不機嫌を撒き散らすのだ。

「吉田氏、」
「なんだい」
「…おいしくない」
「そりゃ、冷たくなったからだろう」
「…吉田氏のせいだ」
「きみねえ、」
「入れ直してくださいよ」

ため息が聞こえた。言外に含まれた「しょうがないな」はミルクに似た、匂いがした。原稿の白はいつのまにかエスプレッソに侵食されるミルクのように、色が乗っていた。胃はキリキリと痛んだけれどもうすぐ今週の原稿は終わるだろう。カーテンの隙間からはやわらかな夕陽が差していた。


とおく、電車の音が聞こえる。

二○一からずいぶん遠いところまで来てしまった。夜にはもうやかましい子守唄も聞こえない。けれど、この無駄に広いマンションはきらいではなかった。此処に居る約束など1つも交わしていない吉田氏と僕、ローンなんて味気ないものによってだけれど、すこしだけ、繋げてくれたような気がした。僕の面倒を見る責任強い吉田氏だから、きっと僕がこの見たこともない桁のお金を返し終えるときまではそばにいてくれると、淡く期待ができた。いつかの夕方にも今日のように、そばにいられるかもと。夜寝るときばかりはすこし寂しいような気もするが、わるくない。

コトリ、ソーサーが広い机の端に置かれた。僕は仕事を終えてペンを置く。ひとくち流し込んだ白い泡は、やけに、あまかった。本当は、冷たくなったそれでさえおいしいなんてことは、言わないでおくのだ。吉田氏はなに知らぬ顔で、原稿に目をとおしていた。


(もう一杯ねだれば、それを飲み終えるまでは吉田氏がそこにいるのはよく、しっていた。)



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ストラタからの頼りそのに
りんご嬢作詞の「カプチーノ」イメージで

【歌詞一部引用】
コーヒーの匂いを間に〜様子で居る。
此処にいる約束など〜

(2009.1223)