来宅の気配があったがその主は僕の背後の廊下をすり抜けて居間に向かったようであった。荷物を置くドサリという音、手を洗うために蛇口を捻る音、そしてしばらくして、トントンと何かを刻む音。狭いボロアパートでは姿を見ずとも一挙手一投足が容易に知れる。

トン、トン。同じような音だがゆっくりと煙草を灰皿に落として、僕はおかえりのかわりに使った。仕事場では吸っちゃダメって言ったでしょ、途端に檄が飛んでくる。苦笑して、火をつけたばかりの煙草をもみ消した。怒られようとしてわざとそうする僕に、薄々吉田氏は気づいているのだろうがついやってしまう。「おかえり」ひとことで済めば、どんなにか楽だろう。けれどそのひとことさえ口にする資格のない僕はことさらに煙草をいたぶると、平丸くんお箸並べて、という声に立ち上がった。

吉田氏の調理は早い。一人暮らしをしていたら勝手に身についたとさらりと言うが、同じ暮らしをしてもほとんどをカロリーメイトとカップめんで凌いでいた僕への当てつけにも聞こえて妬ましい。

が、ご相伴に預かっている身としては文句を言う権利もない。数少ないレパートリーにせめてものいちゃもんをつけながら、結局今日も、最後においしいですと白旗を上げるしか、僕に選択の余地はないのだ。たいへんけっこう、にこやかに笑って吉田氏は空っぽになった器をシンクに運ぶ。そうしてあたたかな夕飯をたらふく食わされた僕を引きずって四畳半に連れていく。満腹でいささかの眠気を覚える僕の目を覚ますように十一月の小窓はいつの間にか空けられていた。ぶるり、ひとつ震えながら小さな作業机の前に座ると吉田氏が窓を閉める。

いつかの冬、寒いじゃないですかと非難し、誰かの煙草の換気だよと睨み返されて以来、僕はその非情な行為に抗議する言葉を封じられていた。本当は締め切った部屋で風邪を引かないように束の間開けられているのだとは、知っていた。

しかし寒いものは寒いんだと横目で訴えていると素知らぬ顔で、そろそろ半纏出しておこうか、と吉田氏は言った。悔しいから、まだ平気です、と返した。どこにしまったっけな、僕の言葉など届かぬ編集者はそうつぶやきながら顎をさすっていた。

皿を洗い、僕が来週の原稿にペンを入れ始めたのを確認すると、吉田氏は携帯をいじりながら片手で器用にマフラーを巻き始めた。無言であったがもうすぐ帰宅する空気は伝わった。気づけば終電も近い。コーヒー買いにいきます、小銭を持って立ち上がった。吉田氏は携帯から顔を上げると、上着だけは着なよと言ってくしゃりと笑った。

うなずいた僕はのろのろと居間に上着をとりにいく。畳に放ってあったはずのコートは壁にかけられていた。袖を通して玄関にもどると、吉田氏はもう靴まで履いて僕を待っていた。

「鍵持った?」
「はい」
「自販機、いつものとこだよね、」
「はい」

ひとつうなずいてガチャリ、吉田氏は家のドアを開ける。途端に寒気が鼻に染みて上着の襟に顔を埋めると見とがめた吉田氏が小さく笑った。じろりと睨んだが、僕は内心すこしほっとしていた。

僕がおかえりを言えないように、吉田氏は去り際の言葉を口にできない。玄関口からは、いつも戸惑ったような気配が伝わってくる。なんというのが正しいのか、おそらく吉田氏にとっても曖昧なのだろう。だから僕はなにかにつけ、共に家を出る口実をつくる。春なら散歩、夏ならアイスだとか、てきとうな理由だ。とにかく家を出るのが目的なんだから、理由はなんだっていい。困ったように言葉を探す時間をなくせればそれでよかったのだ。

ガコン、固い音を立てて落ちたスチール缶を拾う。凍てついた指先が焼けるように熱い。それ、そんなにおいしいの? 不意に吉田氏が聞いた。僕は小さく笑い、それからうなずいた。

本当は、妙に甘過ぎる上に口当たりも微妙で、この商品はけして好きではない。それでもわざわざ買うのは、このコーヒーが一番回り道をしないといけない自販機でしか売られていないから、歩く時間が長くなるからというただそれだけの理由だった。

曲がり角、吉田氏が僕に手を振り消えた。

「いってらっしゃい」背中が完全に見えなくなった頃、ぼそりと僕はつぶやいた。

帰る家を持つ彼に向かって決して言えないことばは、姿が見えないとどうしてこんなにするりと出てくるのだろう。

コーヒーを口に流しこんだ。しょっぱい涙と中和して、なんだか、ちょうどいいような気がした。

(今ごろ無事に、終電に乗れただろうか)


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いい夫婦の日と聞いたので。
平吉が好きだけど夫婦といわれるとなぜか吉平な気がする。なんでだろう

(2010.1122)