※すみません。吉田氏に奥さんがいないことになってます


印鑑や通帳は必ずひとつところにしまっておくよう言い聞かされていた。自分でいうのもアレだが僕は生活管理能力だとか危機意識だとかが足りない人間だから、親もなにかと心配だったのだと思う。

作業部屋の壁に沿ってちょこんと置かれた本棚、下段の小さな引き出しが、現在の僕の大切な物入れ。本来引き出しがメインに作られた物ではないからたいして量は入らないけれど、大事な物なんてほとんどない僕にはその程度の大きさでちょうどよかった。よかったはずだった。

引き出しに新しい住人が加わったのは二○一入居五年目の、春のことである。漫画家になって初めて担当が持ってきたファンレターの束、その内の一通だ。シンプルな茶封筒、差出人の名前はない手紙、わざわざ使用済みの切手など貼られていたが僕には一目読んだだけでわかってしまった。(だってネームを見るたびそこに書かれている文字なんだから)それは紛れもなく担当本人、吉田氏自らが僕に書いたファンレターだった。ひどく熱のこもった、しかし必死に自分が書いたわけではないと主張するかのような、ときどき筆跡の固い、手紙。愛おしくて、吉田氏のいないところで何度も読み返して、それから引き出しにしまった。

それを皮きりに、僕の引き出しはおどろくほどの早さで満たされていった。喉が痛いと言ったら無造作にくれたアメ玉、高圧的だけれどどこか気遣いを含んだ僕へのメモ、一緒に行った初詣で引いた大凶、ぜんぶが大切で、吉田氏との思い出で、だから、引き出しにしまって鍵をかける。誰かに、吉田氏にみられてはいけないから。

なんの脈絡のないものが、吉田氏にかかわったという共通点に意味を見出しそっと積み重なっていく。まるで今までの人生で得るはずだった幸福をまとめて吉田氏にもらっているような、そんな感覚さえ覚える僕の引き出し、ある日とうとう満杯になった。もともと入る量がかなり限られていたのだから、当然だ。

まあ考えていたよりはもった方か、そんなことを思いながら迎えた去年の引越である。吉田氏がそそのかしてきたのでちょうどいいと思って二つ返事でうなずいた。引越当日は吉田氏も手伝いに来たが、引き出しの中身だけは事前に運び出しておいた。

実は家の中で唯一鍵のかかる場所を吉田氏も気にしていたらしい、そわそわと本棚を覗いていたがそこに何もないのを見てとり、すこしがっかりした様子だった。どうかしたんですか、わざと聞いたらめずらしく慌てていてなんだか可愛いかった。

引越会社の持ってきたダンボールに描かれたパンダに二人でいろいろ落書きをしたときの写真は、新しい作業机の引き出し、一番下にそっとしまった。前の引き出しの二番近い高さのあるその場所は、僕の新しい大切な物入れになった。

真新しい家、当然のように吉田氏が合鍵を持っていたのには笑ってしまった。可愛い人だと思った。新しい家にはこの人が勝手に来るのかと思うと内心嬉しかった。そしてやはり吉田氏がやって来る頻度は以前より増えた。当然、僕の引き出しが埋まるのも早くなった。

そうして今日、新しい引き出しはいっぱいになった。鍵をかけようとしてももう、あふれてしまってかからない。しまえない。すこしずつ積み重なった僕の気持ちはあふれてもはや隠せなくなってしまった。

僕はとうとう覚悟を決めた。今週の原稿と引き出しの鍵を置いて家を出る。

朝日も昇らない冬の朝は曇っていたが、しかし気分はなぜか晴れ晴れとしていた。デザイナーズマンションを一歩出て、マフラーを巻きなおしながらああと気づいた。このマフラーも吉田氏にもらったものだっけ、いつかきっと捨てなきゃいけなくなるんだろう。(だけど今はまだ使わせてください、独りであるく朝はひどく寒いから)

東京駅って、どうやっていくんだっけ。頼れる担当なしに乗る電車は久しぶりだった。

   * * *

隠し事をされていると思う。確証はない。勘である。けれどおそらく当たっていると思う。数年間担当編集をしているし、相手はわかりやすい平丸くんだから。

平丸くんの隠し事はいつも引き出しにある。以前は本棚付属の引き出し、今は作業机の一番下。ご丁寧に鍵をかけてしまわれている。中身は一度も見たことない。それとなく聞いてみても慌てたようすではぐらかされる。

正直気にはなっていた。俺だって人間だ、知識の実を欲したアダムといヴの血が流れているのだからしかたない。単純に知りたいという欲求もあったし、俺にはたいていのことをさらけ出しているのにまだ言えないようなことなのだから、よほどすごい秘密なのだろうという期待も大きかった。


そんな俺の目の前に、突然その日は訪れた。昼、締切だというのに平丸くんからの連絡がないので訪れてみればそこには完成した原稿と、見たことない小さな鍵。直感的に引き出しの鍵だとわかった。そして妙に片付いた居間を目にし、これが非常事態であることもわかった。

いささか躊躇したが、何度かけても平丸くんにつながらないのでわるいが開けさせてもらうことにした。見慣れた三段引き出しの、初めて見る下段の中身、なんだか緊張して無性に喉が渇いた。唾を飲みこんで一息に開けると、予想外の中身に目が点になった。

なんだ、これは? アメ玉に、カレンダーに、ストラップに、メモ書きに、手紙、エトセトラ。日常のどこでも見られるようなそれらに、なぜか深い既視感を覚える。しばらくしゃがみこんで中をあさり、ようやく俺は既視感の理由に思い至った。ここにあるものは、どれも、俺に関わりのあるものなのだ。ひとつひとつ確かめてやはりそうだと確信を得る。だがどうしてこんなものを? 疑問符を浮かべた俺を、底に眠った手紙が待っていた。未開封の手紙、これだけは見覚えがない。破って開けると見慣れた汚い文字が便箋一枚分ならんでいた。

『吉田氏、ごめんなさい、僕はやっぱり何度考えたってあなたが好きです。ホモではありません。吉田氏だから好きなんだと思います。(名誉のため言っておきますが、マゾでもありません)この気持ちはずっとしまっておくつもりでしたが、それもできなくなってしまいました。
吉田氏きっと、きもちわるいと思ったでしょう、すみません。
しばらく、放っておいてください。一週間でもどります。原稿はちゃんと描きます。
吉田氏、きもちわるくて仕方がないなら、どうか僕の担当を外れてください。おねがいします。』

手紙を読み終えると俺は立ち上がった。すぐさま印刷所に向かった。時間はまだ半日余っているというのにどんなときより慌てて押しつけて、それからまっすぐ東京駅を目指した。途中の電車で編集部の雄二郎に電話して、あのバカの実家の住所を聞いた。新幹線に飛び乗った。どこでもいいですと指定した席はにぎやかな修学旅行生の集団のうしろの席で、最高にイライラした。目的の駅に着くまで窓側の座席で、ひたすらバカの手紙を読み返していた。到着のアナウンスを聞き、ぐしゃりと丸めてポケットに突っ込んで鈍行に乗り換えた。そろそろ夕日がまぶしかった。

最寄り駅からはなんとタクシーで三十分かかった。平丸に請求しようと思った。そしてとうとう取り立て先の住所にたどり着いた。よくある田舎の一軒家。そこそこ広い庭、わんぱくに吠える犬、家人が出てくるまでてきとうに眺めていた。ガラリ、ガラス戸の玄関が横に開く。集英社の吉田です、考えていた言葉は出てこない。

平丸くんが立っていた。部屋着に深緑の半纏を羽織った姿を見るに、こたつでぬくぬくでもしていたところをインターフォンに出た母親のかわりに出されたのだろう。せいぜい二日ぶりだというのに、不健康な猫背はなぜかひどく久しぶりに感じた。

「よ、よしだし、なぜここが、」
「…バカ、きみの思考回路なんて、お見通しにきまってる」

う、とかあ、とか困惑顔で口をもごもごさせている男の手首を引っぱって庭に連れ出した。玄関はピシャリ閉める。不安げに平丸くんは背後を見遣った。その頬をバチンと張る。おもしろいくらいにうろたえて平丸くんはおろおろと俺を見上げた。「ばかやろう」絞り出すと細い肩がびくりと震える。頬をおさえ、いまにも泣き出しそうだ。(くそ、泣くな、こんなことで。いい年した男だろ、)頭をガシとつかんでフウと呼吸をおちつける。一度だけだからな、平丸くんにというより、じぶんに言い聞かせ口をひらく。

「…きもちわるいんだよ、」
「! す、みませ、」
「うるさいな、君がきもちわるいのなんて、とっくに知っているんだよ、それもひっくるめて俺はきみが好きなんだよ、…わかるか、平丸くん」

なんてこたえるだろう、さすがに緊張して俺は待ったのに、平丸くんはなにもいわなかった。ぼろぼろ泣いた。みていた俺もつられて泣いた。とめることも追いつかないほど泣いたのは久々で、どうしよう、どうしたらいいだろう、そう思っていたときガラス戸がガラリと開いた。アラ、なにしてんのアンタたち、気の抜けたひとことであっけなく涙はとまった。あ、どもお世話になっております集英社の吉田です。

けっきょく晩は平丸くんちのお母さん手製の鍋をいただいてしまった。素朴な味はすっと胃に染みてうまかった。東京での平丸くんのようすなどしばらく話して、ご迷惑おかけするでしょうけど、これからもよろしくお願いしますねというお母さんの言葉で夕食はとじた。お風呂をいただき、二階の平丸くんの部屋に二組並べられた布団に入る。編集ひまなし、明日は朝一の電車で東京に帰らないといけなかった。狭い部屋で、となりの布団で背を向けた平丸くんがぼそりと言った。ありがとうございます。なにがだよ、聞いてから、あ、とわかった。玄関先での、まあその、アレのことなんだろう。言わせないでくださいよ、平丸くんはそう言って、疲れていたのか眠ってしまったようだった。俺も寝よ、布団をかぶりなおすと、なんだか平丸家の匂いがしてたまらなくなった。どうしよう、これ眠れないルートかもしれない。まあ、いいか。聞こえてくるやすらかな寝息に耳をかたむけながら、そっと、目をとじた。

   * * *

東京ゆきの新幹線に乗ると、吉田氏は窓側の席にドカと陣取り着ていたコートを膝にかけた。目の下にはなぜかクマ、寝る気満々なのはすぐにわかった。案の定、ねむい、不機嫌そうに言うと、吉田氏はコートの下で僕の手をぎゅうと握った。東京着いたら起こしてよね、そんな風にいわれるのはいつもと逆で、なんだかおかしいな、と僕は笑った。そして肩に重みを感じた瞬間、ふとあることに気がついた。これ、トイレ、いけない。そして気づいた瞬間にわかに生まれ出づる尿意。あ、これ、むり。だらだらと汗をたらしながら吉田氏が一刻もはやく起きることを願った。なんだかだんだんつらくなってきたけれどそれでも握られた手を乱暴に離すことのできない僕は、ひょっとしてほんとうはマゾなんじゃないだろうかと、泣きたいような笑いたいような、そんなきもちになった。


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友人と久々にスカイプで話したらすげえたぎったので書いた。いまかんがえるとこの前書いた手紙の話が習作になってしまった。ハッピーエンド版ということで。
ほんと久しぶりに、午前四時まで物書きしました。やっぱりこのふたりがとても好きだな。

(2010.1128)