経年劣化であろうか。皿が割れた。白く小さなしょうゆ皿が、シンクに触れた瞬間いともかんたんに穏やかに割れた。カタンという音は一般に想像する耳障りなガチャンとは程遠く、一瞬僕はなにが起こったのかわからないくらいだった。あ、と声を上げたのに原稿を読んでいた吉田氏が振り向く気配がある。

立ち尽くす僕を見て担当が台所までやってきた。(といっても六畳一間で僕らの距離はもともと1メートルもなかったんだけど)横からのぞきこんだ吉田氏は見下ろしてあーともらす。

「大丈夫?」
「捨てるしかないでしょうね。真っ二つだ」
「いや、指が」
「え」

吉田氏の手がひょいと僕の右手に伸びる。泡だらけの手を、流れたままの水につっこんで吉田氏が勝手に洗う。硬い指先が自分の指の腹を丹念になぞるのでなんだか自分が皿になったように感じた。泡を一通り流し終えると持ち上げた吉田氏が僕の手のひらを返し返し、何度もみつめて傷はないかとたしかめる。大丈夫ですよと言った瞬間痛みが走った。吉田氏が薬指の先を強く圧したのだ。自分でも気づかないうちにささやかな傷が生まれていたらしい。言葉がない。

顔をしかめた吉田氏は脇にかかっていたタオルで丁寧に僕の手から水滴を拭うとそこに直れとぞんざいに言った。指された畳の上になんだか情けなく正座すると僕の家なのになぜか僕より物の位置を熟知した吉田氏が箪笥の一番上から救急箱を取り出して開ける。綿に含まれたマキロンは思いのほか染みつらかった。皮膚に走った電撃をやりすごしもういいだろうと足を崩そうとすると、「ダメ絆創膏」と新たな刑罰が取り出される。指にする絆創膏は拘束感がつよく僕は嫌いだ。

眉をよせてみても吉田氏は容赦ない。ペリペリとテープを剥がして僕の指に、口調とは裏腹にひどくゆったりとした手つきで巻いていく。なるべく痛くないよう加減して押し付けられたマキロンの綿といい、大切にされているように感じてしまい気持ちわるいので、いっそがさつに男らしく処置してくれたらいいのにと思った。圧迫しすぎないよう丁寧に巻かれた絆創膏は予想していたより苦しくないのがなんだか気に入らない。

ようやく自由になった右手をまじまじと見つめていればパチンと救急箱の蓋を閉じた吉田氏が言った。

「もう洗い物はしなくていい。きみは原稿のことだけ考えろ。包丁なんてもってのほかだ」

なにを冗談を、と口答えしようとしたのにしかし目の前に座る男はあくまで真顔なのでなにも言い返せず終わった。かわりにもやもやとしたものだけ内に残る。吉田氏が細い眉を持ち上げた。

「なに? 文句があるなら聞くだけは聞いてやるけど」

それを認めてやるつもりは毛頭ないよ、という意味の言葉が続くのだろう。べつに洗い物が趣味というわけではないから、禁じられたことはかまわなかった。ただ新しく吉田氏の定めた掟に聞きたいことがある。しかしそれを口にしていいか僕にはわからない。このところすっかりこの男に支配されることに無感覚になってしまったせいできっと脳まで気づかぬうち制圧されていたのだろう。僕が口をひらくかどうか迷っているとせっかちな支配者が痺れを切らす。

「ああーっもう、めんどくさいなあ、なにが言いたいんだよ、」
「…吉田氏でも、僕の言いたいことがわからないことがあるのか」
「はあ? 当たり前だろエスパーじゃないんだから」
「(…ちがったのか)」

それはおどろきだ。(いや、真剣に)僕がたまに忘れる自分の誕生日さえ今年この男は律儀にネクタイなど寄越して祝ってみせたので、てっきり僕のことで知らないことなどないのかと思っていた。そうか。僕にもまだプライベートな部分は存在したのか。思うとともに、ではこの疑問も口にせねば伝わるまいと尋ねてみる。

「担当する作家だから、吉田氏は僕が心配なのですか」

間は一拍であった。すぐに口を開いた吉田氏の返事は早い。

「そりゃ、作家として心配してるんだよ」

当たり前だろうとでもいいたげな口調にほっとする反面、どこかがっかりしたような気もしていた。そうなのか。あまりに過敏に心配するので僕は、そうだ僕はたぶん自分がすこしくらいこの男にとって特別なんではないかと妙な勘違いをし始めようとしていたのだろう。始まる前に気づかせてもらってなによりである。しかし吉田氏の言葉はつづく。

「って、言い切れたらよかったんだけど」
「…え?」

次の間合いはすこし、長かった。いつになく落ち着かないようすの吉田氏はめずらしく視線をさまよわせ、けっきょく僕の絆創膏にその目を落とすとぎこちなく言った。

「おまえさあ、足りないんだよ、どっか。常識とかその辺がさ。だから作家としても心配してるけど、一人の人間として俺は平丸くんが、心配だよ」

なんだきもちわるいな、言わせるなよ、身震いしながら吉田氏が救急箱を箪笥にしまう。僕はぽかんとしてその一連を見つめていた。平時に戻った吉田氏がさっさと原稿を描けと言う。ひとりの人間としてもうすこしやさしくしてくれたっていいじゃないですかと僕が口答えすると、うるさいこれが俺なりのやさしさだとふんぞり返られた。

そのやさしさは薬指によく染みた。


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公式であべくんがみはしに包丁禁止してた…
あと今日皿割った

(2011.0330)